フミコの日常・泡のような日々

クローン病をもつ社会人のブログです。健康のこと、仕事のこと、家庭のこと、キャリアのこと、なんでも思ったことを書いてます。

5/16 大事なもの

今日ブログを書いているのは書きたいことがあるからというよりも、書かなければ家でずっとだらだらして過ごしてしまうから、それを防ぐためにしている。昨日はまーちゃん(妻)に、今年1年が僕にとって勝負なのだから、受験生のような気持ちで過ごすように怒られた。ともすれば会社で働いている自分でばかり居続けてしまい、修論を書かなきゃいけない自分を忘れてしまう。ひとつ試しに、明日からは朝8時から9時半までオフィスビルのカフェスペースで研究をして、その後出勤するようにしよう。全然キーボードが進まないので気持ちは重いが、朝に無料のコーヒーを飲みながら、東京タワーが見える高層階の景色を眺める爽快感を餌にして、なんとか毎朝足を運ぶ習慣をつけてみよう。まーちゃんに言われたが、僕は修論をやる現在の自分と将来の自分との間に関連性を見出すことができていないんじゃないか?とのことだった。確かに、こんな限定的なものがどう役に立つのかわからない。でも、出せなきゃ出せないでもう自分に期待をしなくなってしまうだろうなあ。オフィスで隣に座っている先輩にも、前職の先輩にも、適当に書いて出してしまえばいいじゃないと言われたし、就職する文系修士の論文などほとんど意味がないことはその通りだ。とすれば、僕のこのこだわりはきっと、社会人になった誰しもが持っている、どうしようもない愚かさの一形態なのだと思う。それはどういうことかというと、たいていの人間は、仕事をする時に合理的な自分を演じて生きているはずなのだけれど、プライベートでは人に理解されない趣味や謎のこだわりを持っているものだと思うのだ。それが、僕の中ではきっと(結局ずっと身にならなかったし、これからもそうなるかはわからない)勉強に対する憧れというか、自分に対する高い期待値と混ざったものだろう。だとすれば、これを出せなかった未来の僕は、この自分の幼さや本質的なもののひとつを捨ててしまうのだろう。世の中に折り合いをつけすぎて、世間に合わせすぎてしまうのだと思う。これは、過去の自分であったり、夢や希望であったりするものと現実の自分とをつないでいる糸なのだ。それは、世の中を生きていておかしくなってしまわないための生命維持装置であると同時に、常に現実の自分を縛りつけて可動域を狭める制約でもあり、そしていま僕が生きる意味のひとつでもあるのだと思う。そうか。大事なものなのだ。だからうまくできなかったり、目を背けてしまいたくなったりするのだ。これに向き合っている時間、悩んでいる時間は僕にとってかけがえのないものなんだね。キーボードを打ちながらこの地点まで来ると、なんだか気持ちが少し楽になったようだ。