フミコの日常・泡のような日々

クローン病をもつ社会人のブログです。健康のこと、仕事のこと、家庭のこと、キャリアのこと、なんでも思ったことを書いてます。

変わってしまったものを問うことは、変わらないものを知るためにする

家~渋谷図書館

今日は、3月の終わりだ。土曜日の朝、昼過ぎに起きて、本当なら国立に行くつもりだったのだが、どうしても、なにもやる気が起きなかった。それは、まーちゃんも同様だった。だから僕は、きっと今日は平日根詰めたぶん、気分転換が必要な日なのだなと思って、お散歩に行くことにした。まーちゃんの母校に近い広尾方面ならきっと気持ちよかろうと思い、携帯も持たず、ふらりと歩き出した。恵比寿から広尾のほうに向かうと、しばらくは大通りに面した道を歩くことになる。車の通りが煩わしく、静かなところへ行きたい。そう思いながら歩いた。すると、子供連れでにぎわっている長方形の公園にたどり着いた。長い方の辺が約30mほどはあろうか、奥に入ると車の音が遠ざかって聞こえる空間だ。桜の名所らしく、きれいなピンク色の桜の木がほうぼうにあり、花びらがそこら中に散っている。父母同士で花見をしているグループもいる。子供の年齢は3歳頃が中心で、たわいのない遊びをしている様子だ。まーちゃんと、コンビニで買った100円のコーヒー牛乳を分け合って飲みながら、のんびりとした休日の暖かさを感じるベンチに腰を下ろした。すぐそばに保育園があり、まーちゃんの将来の話もした(注:まーちゃんは指導教員から、保育士免許を取得し幼稚園教諭を育成する大学に就職することを勧められている)。それからまた歩き始めて、広尾の高級住宅街周辺を進んだ。広尾にある戸建て住宅は、国立以上に目を引くものが多い。上には上がある。それから、聖心女子大の脇を通って、まーちゃんの母校を眺めた。そのまま歩いて國學院氷川神社、公園を経由して渋谷区立渋谷図書館にたどり着いた。

 

渋谷図書館~自宅

渋谷図書館はレンガ造りの古びた建物で、薄暗い雰囲気だった。雑多な本に混じって、ギデンズ社会学やピケティの21世紀の資本、ロールズの正議論などがあり、読むものに事欠かないありがたい場所だった。僕が今日借りたのは、数学ガール1巻、理学研究者が書いたAmazonのランキングのロジックを説明した本、アリババの馬雲を紹介した本の3冊だ。もっとも、読み切れず終わってしまうかもしれないが、それにしても、自宅の近くに返却用ブックポストがあるらしいので、利便性が高い。まーちゃんは、たいてい借りる本に悩むたちなのだが、せっかくだからということでカフカ全集を借りたようだ。僕がなにより嬉しかったのは、山岡荘八徳川家康の本を見かけたことだった。なにも、歴史オタクでもないし、結局僕はその文庫を8巻目で挫折してしまったのだが、これは1つの思い出の本なのだ。大学時代にフラフラしていて、国立の市立図書館によく通っていたとき読んだ本だ。さらにうれしかったのは、数学入門書が少しあったことだった。高校時代は数学ⅡBまでしか履修しなかったし、大学受験は数学0完で入学したので、数学はまったく苦手な部類だ。ところが会社の先輩が数学の研究課題を投げかけてくるので、人並みに数学ができなければいけない。大学時代に読んだ畑村洋太郎の直感でわかる数学のような、数式の意味を日常言語で説明している本であったり、分厚い数学辞典が渋谷図書館にあったため、心強く感じた。気分よく図書館を出て、渋谷のスーパー・ライフに向かった。以前の消費習慣が抜けていないため、金欠が続いている。それをなんとかするために、まーちゃんとともに1週間ぶんの食材をまとめ買いしようと考えていたのだが、いかんせんまともな価格帯のスーパーが近くにない。今日見つけたライフは歩いて行ける距離のうち一番安く、品ぞろえも豊富だった。しかも、324円で購入した商品の送付まで手配してくれる。これまた心強い場所を見つけることができ、生活に希望が見えた。

 

自宅にて

家では、晩ご飯を食べて、2時間ほどハイキュー!のアニメを見た。ハイキュー!は週刊少年ジャンプの漫画が原作であり、漫画のほうは展開が遅く最近楽しめなくなっていたのだが、アニメで観ると、アニメーションの動きとセンスのある演出があいまって、とても心を動かされた。同じくジャンプの食戟のソーマの方は、漫画に声と色を付けただけのように感じるが、ハイキューはアニメにする意味がある作品と感じられる。そして、原作の持ち味である青臭い青春劇の良さはそのままなので、僕も高校時代の部活を思い出した。ハイキューほど目的意識をもってstep by stepに成長できなかった点が悔やまれるが、熱さや若さがあった。<僕はなにかを取り戻そうとして生きているのだろうか?、とこれを書きながら自問した>そして今、パソコンに向き合って、モーツァルトを聴いて、お香を焚きながら感性の針を一定の幅のうちにとどめようとしている。最近頭にあることは、数学であり、統計学であり、社会学であり、Rであり、プログラミングであり、人文学である。もうスーツは着ていないし、少なくともこの3ヶ月は典型的なオッサン管理職とストレスフルな接触をする機会を避け続けられている。自分の脳と心を守るためにだ。なるべく環境を、サラリーマン組織の類似ではなく研究室の類似であるかのようにとどめおこうとしている。僕は回帰してきた。大学時代と関心は変わっていない、と思う。ただ、前よりも少しだけ生きるのがうまくなった。そして、1人ではなく2人で人生を生きている。2人の理想は共通している。これだけが変化だ。強い意思に呼び戻され、ここまで回帰してきた。そしてそれは、高校時代に志望校を決めたときからずっと、漠然とした原点のようなものから一貫している。<僕はなにを確認したいのだろう?><迷いがあるのだろうか?><自分が正しいことを信じたいのだろうか?>わからない。わからないけど、この自分に対する問いかけは、大学時代の僕そのものでもある。いやそれ以前から、人と話すことが得意ではなくもっぱら内面の対話ばかりしていた僕、ずっと続けてきた自己の証明だ。だから、僕は今まさに僕なのだ。<この地点は思考が分岐する地点であり、様々な回答があるだろう。今回は、以下のように答えた>そして、わからない。だから、僕は今関心があるものに没頭するとともに、この種類この水準の悩みにうまく応答してくれるものを探そう。それは本かもしれないし、場所かもしれないし、会話かもしれないし、音楽かもしれない。あるいは、この状態は問題状態なのではなく、一つの健全な精神状態なのかもしれないし、一つの健全な酩酊状態なのかもしれない。<度が行き過ぎれば鬱になる>矛盾しているようだが、僕は今までになく調子が良く、自分の興味があることに没頭して学び続けたい。そして、僕は他人を必要としている。それは矛盾しているがゆえに、よく響く鈴がガラス瓶に落ちた時の音のように、自明の理であるように思われる。ここが、張り裂けどき。もう一枚、自分を切り開いて変わる。なぜなら、変わらなかったことがわかったのだから。