クローン病持ちのデータ分析系サラリーマン・フミコの日常

クローン病をもつ社会人のブログです。健康のこと、仕事のこと、家庭のこと、キャリアのこと、なんでも思ったことを書いてます。

2/1 ごろごろと這いずり回っている

僕は言うなれば、「日経スタイル-東洋経済オンライン的世界観」というフィルターを通じて世界を見ていたのだ。今やその限界は明らかであり、綻びから小さな光の筋が伸びている。というのは、日々は何が起きようと何も変わらず、ただ家と職場と職場の人間関係と組織のみが実在しており、朝とりかかった仕事が終わるかどうかと給料と人生設計と人からどう見られるかが主な関心事であり、もう生きることに退屈しかけているからだ。読める文字はSNSとネット記事とせいぜいビジネス書であり、薄く薄く引き伸ばされた「成長」や「自己実現」を目指して同じ毎日を繰り返している。

 

僕は、言葉によって世界を理解する人間である。現象は意味を持たず、言葉と言葉、概念と概念の間にある意味の連関こそが存在意義である。ゆえに、言語になっているもの以外は認識できない。僕にとっては自分の感覚が絶対基準であり、その感覚をいかに言葉の上に再現するかに全力を注ぐ。妻は僕と真逆で、イメージによって世界を理解する人間である。言葉を介さなくとも現象のメカニズムを見出すことができ、それに対してもっとも効果的と考えられる行動をとることができる。僕は言語化されていないものはあるがままを、感覚を通じて受容してしまうが、妻はおよそあらゆることに対して、言語化されていなくとも自らの範型を保持し、それを当てはめて現状を認識することができる。

 

僕のもう一つの特徴は過剰適応と埋没である。自分の立場に期待されている役割や理想を体現しようとする傾向が強く、埋没or消耗の二極的な状態に陥りがちである。およそ相対的であったためしはなく、埋没状態から次の場所へ脱却したあとに以前の場所とのつながりを感じることで、複数の視点を得る可能性を担保する。僕は望んで変わろうとするが、妻は決して変わるまいとする。妻はどこに行っても自分の理想を忘れず、理想に沿わない現実に対して自らの水準を合わせることをしない。真逆だからこそ一緒にいる意味がある。そして僕は、慣性に支配された軌道をもう一年巡ることを避けるため、全身の感覚を鋭敏にして、どこにあるかまだ認識できていない軌道修正のためのスイッチを感知しようとしている。願わくば、一段、より深層へと降りていきたい。この3,4年間で表層の土台はあらかた固めてしまった。

 

この土台を掘削し下層にたどりつくためには、表層的な物の見方を意識的に遮断できるようにならなければならない。一度としてそんなことができたためしはない。僕にできる一歩目の努力は、言葉の力を借りることだ。3つの超越がある。境界を超えること、時間を超えること、具体を超えることの3つである。自明の常識と離れた捉え方をすること、歴史を通じた厳密な推論をすること(歴史の忘却を防ぐこと)、論理的な手続きを経て現実を認識することの3つである。より深い人間理解、世界理解を求める、「社会人」化への抗いである。それは僕にとって、忘れてしまった名前を思い出そうとすることに似ている。