フミコの日常・泡のような日々

クローン病をもつ社会人のブログです。健康のこと、仕事のこと、家庭のこと、キャリアのこと、なんでも思ったことを書いてます。

10/21 休職日記①疲れながら働いていた時に、読んでいた一節

疲弊しながら働いていた時期、よく読んでいたのはビクトール・フランクルの著書の下記の文章だった。

 

三 労働の意味

既述の如く、生命の意味は単に問われるべきものではなくて、われわれが生命に責任をもって答えるという意味で、答えられるべきものである。そしてこの答えは常に言葉ではなく行為によって与えられるべきであるのはいうまでもない。更にそれは状況と個人の具体性に応じたものであり、いわばこの具体性を自らの中に取り入れていなければならない。したがって真の答えは行動的な答えであり、日常の具体性における答えであり、人間の責任性の具体的な空間からの答えなのである。

(略)

創造価値ないしその実現が生活の使命の全面に出ている限り、その具体的な充足の領域は通常は職業的な活動と一致しているのである。

(略) 

可能な創造的価値実現の領域としての職業労働に対する人間の自然的な関係は、現下の支配的な労働事情の下においてはしばしば歪曲を蒙るのである。特に一日に八時間ないしそれ以上の時間を企業家とその利益のために働き、たとえばいつも計算ばかりしなければならなかったり、廻ってくるベルトに同じ作業をしなければならなかったり、あるいは一つの機械で同じ動作をせねばならないことを訴える人々がいる。仕事は非人格的になり、規格化されればされる程それだけ一層好まれず望ましくないものになるのである。かかる状態においては、労働はもとより賃金や必要物資の獲得の目的のための単なる手段とみなされうるのである。この場合においては本来の生活は自由な時間においてはじめて始まるのであり、その意味はその自由な個人的形成のうちに存するのである。しかしわれわれは、その労働にあまりにも疲れて、それが終った後に、何かよいことを始めることもなく、死んだようにベッドにくず折れざるを得ない人々がいることを忘れてはならない。彼らはその自由な時間をただ休息の時間にせざるをえないのであり、寝るより以外の他のことはできないのである。

                V.E.フランクル『死と愛』より、抜粋

 

この本は全部読み通した訳ではなく、また、前提となる知識が私の持っているものを超えているため完全に理解していない。そのうえで、私は上の文章を、以下のように解釈した。

 

前提として、フランクルは、「人生の意味は何か」という問いかけを、「ほかならぬこの私は、人生を通じてどんな意味を実現できるかどうかということを、人生の側から問われている」と捉える。

 

上記文章に戻って、自分が実現しなければならない人生の意味とは、抽象的な言葉ではなく、具体的な行動によって示されたものである。それは一瞬一瞬の行動でもあるし、様々な自己の選択により生み出した状況や環境でもある。

 

その人生の意味は、理想的には、自分自身の職業と結びついているものである。

 

もし職業と人生の意味がずれているのなら、日常生活において人生の意味を実現できる時間は、働いていない時間ということになる。だが、労働に疲れ果ててしまい、帰宅後や土日に人生の意味の実現に時間を使うことができないのなら、・・・なんのための人生だろうか。

 

*1

*1:ここで私が述べている「人生の意味」は、創造的価値、体験価値、そして態度価値を含む