東北生まれの冷え性金融マン・フミコの日常

クローン病をもつ新社会人のブログです。健康のこと、仕事のこと、家庭のこと、キャリアのこと、なんでも思ったことを書いてます。

5/29 精神性の力

今日はまだ月曜だというのに、身体のあちこちがバキバキで、自宅に帰ってぬるま湯の風呂につかりながら、主に首や肩を中心にひたすらひねってみたりしていた。そのあいだ、お気に入りの音楽(Civilization4のサウンドトラック)をかけて、クラシック音楽の中に埋まり浸っていた。

 

風呂上りにお香を焚きながら、引き続きクラシックを流し、ゆったりと息をしながらストレッチをしていた。目を瞑るとまるで雄大な世界が広がっているかのように思えた。今聴いているこれらの音楽は、300年も400年も人間の文化と共にあった。これらの音楽を愛する人々の群れ、受け継がれる血でつながった人類にとっての港として、灯台として、変わらぬ世界の柱として存在してきたのだと思うと、僕の心の中には、なによりも高く人々の心の寄る辺となるmonumentとしてのこれらの音楽の姿が浮かび上がった。

きっとその姿はひとつの真実なのだと思う。

 

心の中に浮かび上がる広がりと、monumentとしてのこれらの音楽の姿にくらべると、いま僕が生きている日常は色褪せて見える。日々、なんてくだらない仕事が発生しているのだろうと思うし、あまりに物質的で、即物的で、定量的な世界がいたるところから、僕が死ぬ瞬間までずっと敷き詰められており、おぞましいとしか形容できない生が存在しているように思える。qualityという語の意味が失われてしまっている時代なのだろう。

 

心の中に風景を浮かび上がらせるといえば、昔の人は演説の内容を暗記するときに、心の中に建物を建てて、その建物の各部屋を演説の内容の各部分に割り当てることで、長い文章も覚えていたという話だ。だが、もしかするとこの方法は、副次的なテクニックでしかないのではないか。心の中に空間を創ることは本来、人間のもつ創造力を発揮するためにある手段なのではないかと思った。最初は紙に書いてからでいいので、心の中に自分が選び取った美しい空間を次々に創っていく。この空間は何者にも脅かされない空間だ。なによりも、物質主義的で心が壊されそうになるのを防ぐために有効な手段ではないか。この発想は愚かだろうか?きっと、働きだしてから日常の無機質さに直面したことがなく、感情が死にそうになったり虚しさに目の前が白くなったりしたことがない人にとっては意味のない空想に過ぎないのかもしれないが、僕のように日常の虚しさになんとか抗いながら希望と成長意欲の灯を絶やさないようにするのが精いっぱいの人には、日常に真正面からぶつかるより「まだまし」な方法に思える。

 

心の中に創り出した美しい空間になにを結びつけるかといえば、それは本来のqualityだ。僕が思うに、モノやサービスに用いるqualityは消費社会が生んだ語法であり、より伝統的なのは人格に関するものだ。現代社会の人々のように人間性をむやみに貶めるのではなく、未来を切り拓く可能性と希望を人間性に期待すること。その構成要素が人格に関するqualityであり、1950年前後を境に失われたような気がする思想である。

 

同様に、「精神」という言葉、mentalityもまた、分析的なものの見方の戯れの果てに表面的な意味に劣化してしまった。人間がもっていた精神の有機的な連関は、気分や、ストレスや、感情や、知識など、個々の部分にばらばらに散らばって認識されることによって、全体が一つとして働いた時に発揮される推進力を失ってしまったように思える。根拠は薄いが、これが今われわれが生きる時代を特徴づける、人間に対する知のありかた、あらゆる認識の基盤として存在しているように思える。

 

このような見方を現実的ではないと言うのはたやすいし、確かに現代的な感覚にそぐわないのは間違いないと思うのだが、かといって、現実的で現代的な感覚に沿って生きることが意味があるようにも思えない。現に、生きるのが苦しいし、なんだって苦しさに耐え忍んで、心の希望を押し殺してまで、現実の側に合わせてやらねばならないのか。

 

今日の時点で答えを出せるわけではないし、僕もうまく実践できているわけではないのだが、どうも、1950年代より前、あるいはもっと前の時代に書かれた人格や人間性に関する本の中に、今とは違う生き方や、日々使うことのない創造力の使い方に関する記述があるような気がする。それは、少なくともここ50年くらいの間によく浸透してしまった認識とは異なるかもしれないが、だからこそ、今僕が感じている日常の苦しみを抜け出すヒントになるような気がする。