東北生まれの冷え性金融マン・フミコの日常

クローン病をもつ新社会人のブログです。健康のこと、仕事のこと、家庭のこと、キャリアのこと、なんでも思ったことを書いてます。

4/15 入院中のチラシの裏

妻がゼミで先生から薦められたという、千葉雅也著『勉強の哲学 来るべきバカのために』を読んでいた。アイロニーの過剰による「超コード化による脱コード化」とユーモアの過剰による「コード変換による脱コード化」の比較(98頁)まで読んでなんだか読み進められなくなったので、ふっと湧いてきたことを書くことにした。

 

自分の体の中が、よく振った炭酸飲料の中身が湧き上がって来るみたいに、抑えられないなあ、という感覚を持った。

思えば、この前お世話になった教員が日経新聞の経済教室に載っているのを会社の食堂で読んだ瞬間に、その場にいる自分の存在がグロテスクに感じられたことから始まっている。その時私は、サラリーマンでもなく、労働者でもなく、ただ一人の人間としてその席に座っていて、「なぜ私はここにいるのだろう?」と感じた。その場にいた人々の意味世界から漂流しそうになった。

私は、自分自身が今いる場への過剰適応によって生き抜こうとするタイプの人間である。サラリーマンとして、株主価値の創造と会社組織への忠誠という二要素に対する貢献をもって自分の存在価値を持とうとした。労働者として、自分の市場価値を高めることに全力を尽くすことをもって自分の存在する意味を見出そうとした。

私はいま物理的には、なんら株主価値の創造に貢献していない。空から私の姿を眺めれば、ある病院の一室でキーボードを打っている入院患者の一人である。だから、いまこの瞬間においてはサラリーマンとしての私も労働者としての私も、きっと嘘なんだと思う。嘘なんだと思うというより、制度上はそうなんだろうけども、私はきっと制度上はそうである以上に自分の精神上で過剰な忠誠心、過剰な意味づけをしてしまっている。

半年前に心臓を悪くして入院した課長は、きっと入院中も職場のことを考えていただろう。物理的にはただの入院患者に過ぎないし、制度上も、入院している課長が職場の一つ一つの業務について責任を負うことはない。ただ勤続年数と支払った社会保険料と、会社の健康保険組合に入っているかどうかとかで、課長と会社とが病院にいくら支払うかが決まるだけで、別に課長はそのまま会社を辞めてもよかったし転職してもよかったはずだ。

私はあまりにサラリーマン然となってしまっているし、そうでなくとも労働者然となってしまっている。だが、そう言われても、他のあり方で息をしていく勝算はないので、まだこれを続けなくてはならない。富が足りないのか?最低限の生活が必要なのか?社会的地位が足りないのか?

少なくとも私が新卒サラリーマンになったのは、第一に日本社会において「新卒社会人」が得られる社会的な教育の一大機会を一度経験してみたい、と思ったこと、第二に仕事さえしておけば面倒な人間関係から逃れられる場に行きたかったこと、第三に大学時代にそこそこいいランチを食べて生活していたのでこれからもそういう生活をしたかったこと、だいたいそれくらいで、別に会社に入る前からやりがいとか社会貢献を考えていたわけではなかった。どうせ働くならやりがいなり社会貢献なりができなければ損だな、と思うくらいであった。

そう考えてみれば私が長く健康に働き続けるために食べてみたいものを一切食べずに生きるというのは最初の目的から外れているしそこまで頑張らなくてもいいのだろうと思う。病院はいい。あらゆる外の役割から宙吊りになった場のように思える。すごいスピードで近付いては離れていく過去の記憶や将来の希望、外での様々な役割に関する思念の停留所のようだ。私はいま窓際のベッドにいて、大きな窓から白いマンションが見えるのだが、見るたびあのマンションの色合いが変わって見えるのだ。その時その時私が考えていたり感じていたりするものによって、そのマンションのもつ意味合いが違って見える。それは、きっと違う私が見ているのだと思う。違う私たちが同じ視覚を共有しているために、違う私がいるということに気付くことができる。

 

いつかもわからない過去の私が失ったものはなんだろう。代わりに今の私が得たものはなんだったのだろうか。