東北生まれの冷え性金融マン・フミコの日常

クローン病をもつ新社会人のブログです。健康のこと、仕事のこと、家庭のこと、キャリアのこと、なんでも思ったことを書いてます。

3/17 中庸の精神

最近は気持ちが荒んでいた。

自分が他人に対して持っていた期待が失望へ変わり、一時的に人生の方向を見失ってしまっていたからかもしれない。

だが、これは自分自身が大きく変化しようとしている予兆なのだと考えるようになった。

人間が変わることは、まず考えが変わることから始まる。私が最近考えていることは大学時代の私とは異なるので、おそらく私は変わり始めていた。そんなふうに変わった自分の目からそれまでの自分の現状を見つめてみた時に、なんなんだこれは、と失望してしまうことはきっと、ありふれたことなのだと思う。その失望が、現状の自分にまつわるものすべてを破壊する。変化は破壊から始まるのだ。なにもかも保存したままに変わることはできない。

映画『コンスタンティン』をみたが、劇中で描かれる判断基準が新鮮でよかった。すべては善悪と規則の原理によって解釈される。最近の私が失っていた視点だった。かつての私は、自己犠牲を喜びとして生きていた。だが、自己犠牲は辛いだけでなく、自分の人生を傷付けるということも知りつつあった。劇中では、自己犠牲は神の国に入る資格を得るための徳を積む行為である。きっと、自己犠牲をすればするほど早く神の国に行けるのだと思う。私は病気になることで、これ以上の自己犠牲を避けて、生き永らえることを選んだ。

人間であること、善を為すこと、悪を為すことの3つはきっと、中庸の精神のもとになされねばならない。志を高く持つこと、自己犠牲の精神を発揮することは喜びをもたらすが、人間の身には重すぎる。欲望を満たすこと、知を求めることは人間の本能であり生きることそのものであるとも言えるが、度が過ぎれば苦しみを生む。それでいて、人間である以上、社会的存在としての制約や肉体を持つことによる制約を引き受けなければならない。

ここ最近の疲労感は、珍しく自己犠牲のギアを上げてしまっていたからなのだろう。人間として生きるのには、自己犠牲の強さは摩擦となる。この半年ほど、あえて自分を許すことによって人間としての自分が生きやすくなるよう調整していた。このように振り返ってみると、最近の気の荒みも心安らかに捉えることができるようになった。

私が変化の途上にあることは今後もしばらくは変わらない。その過程で多くのものを破壊し、私自身苦しむこともあるだろう。それでも、志と信念を灯台の光として、その方向に進み続けることはやめない。それ以外の生き方を私は知らないし、それ以外の生き方をしている人間で幸福そうに見える者はいまのところ知らないからだ。多くの者が、人生の方向性を見失っているようにみえる。だが、昔と違うのは、私が人間として生きるのに慣れてきたことである。今回の変化でまたひとつ成長することができた。

ここ数日の出来事と会った人々の人生に対して、私の糧になってくれたことを感謝したい。