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東北生まれの冷え性金融マン・フミコの日常

クローン病をもつ新社会人のブログです。健康のこと、仕事のこと、家庭のこと、キャリアのこと、なんでも思ったことを書いてます。

2/13 精神に遊びの部分を取り入れること

私は見ての通り昔から真面目な人間だったのだが、真面目さのあまり自分のことを追い詰めがちなところがある。

もともと、そんなに頭が早く回らない上に、人に比べて体力がないので、自分が決めた規律に神経が悲鳴を上げてしまうのだ。

それでも前へ、前へ、とむりやり動かすことが美徳だと思っているので、どんどん歩むスピードが遅くなり、一日に進む距離も縮んで行く。そんな特徴があった。

 

最近は、真面目さだけでは生きていけないことを学びつつある。

私の「真面目さエンジン」は、瞬間的に爆発力を発揮する高性能の製品だ。私の融通の利かなさ、理想の高さ、昔から読んできた古典的な自己啓発本の思想を素材に構成され、自分より優れた人の姿や意識の高い言葉、最近の自己啓発本などをガソリンに動く。

 

「真面目さエンジン」の快感の源は、あらゆる外部環境を物ともせず自分の思い描いた道を突き進み、邪魔になった障害物を次々と蹴散らす無敵感である。そして、自らの信仰に対する確信が癒しとなる。 

 

ただ一つの欠点は、冷却しきれないほどの高温となり、しばしば車体を融かして再起不能になることだ。その最たるものは高校時代に病気になったことだ。

 

高校時代の反省を生かし、私はしばらく自分の「真面目さエンジン」を封印することにした(実際は、しばしば暴発することもあったが)。代わって大学時代に生きる術としたのは、成り行きに身を委ねて即興で返答する反射神経だった。

 

あらゆるものを拒まず、全てを受け止め、当意即妙に応える(もっとも、そんな器用な人間ではなかったが)ことが理想であり、流れに身を任せながらも流れの中で溺れずに、自らを活かすことを理想とした。

 

そこで快感であったのは、ある瞬間から次の瞬間へ移る時の場面転換の大きさである。「なぜ私はこんなところでこんなことをしているのだろうか」と感じることが、最大限の賛辞であった。

 

成り行きに身を任せる反射神経の欠点は、自分というものを持つことができないことにある。大学時代ならそれでもよかったが(期間が限定された平和の箱庭)、大学と違って悪影響をもたらすくだらない人間も大量に生息している実社会において、成り行きに身を任せること、自分を持たないことは、自分の価値を粗末に切り捨てていく危険性をはらんでいる。

 

私は働きだしてから、再び真面目さエンジンを頼りに生きていこうとしてきたが、それがもともと持っている欠点のために、いままた体調にひずみをもたらしている。私に足りないものは遊び心や心の余裕、柔軟性だと思い、先日ロジェ・カイヨワの『遊びと人間』を購入した。

 

カイヨワは遊びの分類としてアゴン(競争)、アレア(運)、ミミクリ(模擬)、イリンクス(眩暈)の4類型を提示する。

 

ここまで書いてみて、私の真面目さエンジンは、アゴンとミミクリに属し、私の成り行き任せの反射神経は、アレアとイリンクス(加えてミミクリも?)に属しているように思われる。(真面目さエンジンは遊びではないから違うだろうか・・・?)

 

いまの自分にわかっていることは、私の生きる方向性自体は間違っていないということ、だが真面目さ一辺倒では関係も滞るし身体や精神にも負担が大きすぎるということである。

 

今夜は思い切って、真面目であることをやめた。怠けている。

 

いまの自分にわかっていないことは、生活に適応した(理想的な)精神のメカニズムである。真面目さエンジンが行き詰まりつつある時に(それは同時に、自律神経の乱れも生じさせる)、いかなる比喩的な精神の動きによって再噴射、軌道修正、再度軌道に乗せればいいのだろうか。

 

いつか気付きが降ってくるだろうけど、いまはまだわからない。きっとそれは私に教養が足りないからだと思うのだ。