東北生まれの冷え性金融マン・フミコの日常

クローン病をもつ新社会人のブログです。健康のこと、仕事のこと、家庭のこと、キャリアのこと、なんでも思ったことを書いてます。

3/26 衰退期の開始;私は次元を変えて進み続ける

手帳の予定に書いていた通り、週末から衰退期が始まった。衰退期とは、8週間に一度の点滴治療の効果が切れ始めてから次の通院までの間、体調が優れず気分も落ち込んでしまう期間のことである。とくに、土日は寒い日が続いたために落ち幅が大きかった。やるべき課題ができておらず、気持ちが焦って食事に気を使わなかったことも影響した。現時点で、腹も痛いし体もだるい。

 

先日、話題の『鬼速PDCA』を買い、今日読み終わった。さっそく目標を立てねばと思ったものの、PDCAの設定は思考に多くのエネルギーを消費するため、いまは難しい。

 

考えを変えて、この時期にできることをすることにした。それは、本を読むことである。戦力期(調子がいい時期)はとにかく働くことに夢中で、読む本も仕事に関連のある本ばかりであった。衰退期は、自分が元気であるうちは読まないような、社会や歴史に関する本や、趣味のSF小説を読もうと思う。衰退期は意識的に早く帰り、自宅のソファに腰掛けて、ひたすら本を読もう。いま読み始めたのは、アセモグルの『国家はなぜ衰退するのか』である。読まねばとずっと思っていたものが、ようやく読める。

 

このような本は、Twitterの経済学者勢や日経新聞の読書欄、大学生協のサイトなどに紹介されているだろうから、戦力期のうちに気になる本をメモしておき、衰退期に入る直前に書店で大量に購入することにしよう。

 

衰退期の間は疲労感やだるさ、ネガティブな感情によって精力的な活動ができず、悔しい思いやみじめな気持ちを持つことが多かった。だが、以上のように自らのリズムに合わせて日々の過ごし方を変えれば、このような悲しみや焦りを持つこともない。見た目には動かず座っているだけに見えようとも、頭の中では進み続けている。このことに誇りをもって、これから先の生き方に取り入れようと思う。

3/19 謙譲の精神―MATTHEW 7

 マタイによる福音書 第7章

Judge not, that you be not judged.

2 For with what judgement you judge, you will be judged; and with the measure you use, it will be measured back to you.

人をさばくな。自分がさばかれないためである。

2 あなたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。

私は自分のうちに変化をもたらそうとして苦しんでいる。そのために、これまでの自分自身を脱ぎ捨てて、新たな自分の判断基準や信念を丸呑みし、よく咀嚼しながら自分の血肉にしようとしている。愚かにも、その新たな尺度を自分自身に対してだけではなく、関係のない他者にまで振りかざしてしまったのだとしたら、まずはその剣を下ろさねばならない。芯の通った正しさや強さは、時に人を傷付ける。正しさや強さに耐えうる者のみに対して、適切なタイミングでのみ、試練は与えられるべきであり、それを決めるのは人間の身である私ではない。他者の不義理に怒ったとしても、それは簡潔に伝えるだけでいい。自分の怒りを許し、相手の不義理も許そう。そして、他山の石としよう。

 

6 Do not give what is holy to the dogs; nor cast your pearls before swine, lest they trample them under their feet, and turn and tear you in pieces.

6 聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。おそらく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたにかみついてくるであろう。

私自身が呑み込んだ判断基準や信念、人生に関する新たな智は、おいそれと他者に与える必要はない。なによりも、求めていない者に対しては。正しさや強さと同様、与えられる資質と時機が存在する。それを満たさないのであれば、忠告は聞き入れられないし、そればかりか逆にかみついてくる輩もいる。私の信じる正しさを受け入れまいとし、そもそもその存在に感づかない者はその自由意志を尊重し、沈黙を守ることで認めよ。驕り昂ぶるな、最期まで正しさはわからないのだから。

 

7 Ask, and it will be given to you; seek, and you will find; knock, and it will be opened to you.

7 求めよ、そうすれば、与えられるだろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。

常々求めていることは、人生全体に渡って正しい信念を持ち、対等に話し合うことができ、共感を分かち合うことができる同志である。また、未来に対する確信を持った希望と、具体的な計画の立案と実行である。諦めることなく、ひたすら求め続けよう。そして、自らの方向感覚と信念とを捨ててしまわず、信じ続けよう。

 

12 therefore, whatever you want men to do to you, do also to them, for this is the Law and Prophets.

12 だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。

してほしいと望むことは、互いへの愛情と尊重に満ちた関係であり、奪うのではなく適切に与えることである。私も自分自身の傲慢さを捨てて、自由意志を持つ一人の人間として相手の存在を認めよう。人間としての相手に与えられうる最大限の尊重を示し、他者に対して分をわきまえて、自己の領分に踏みとどまる自律と謙譲の精神を養おう。

3/17 中庸の精神

最近は気持ちが荒んでいた。

自分が他人に対して持っていた期待が失望へ変わり、一時的に人生の方向を見失ってしまっていたからかもしれない。

だが、これは自分自身が大きく変化しようとしている予兆なのだと考えるようになった。

人間が変わることは、まず考えが変わることから始まる。私が最近考えていることは大学時代の私とは異なるので、おそらく私は変わり始めていた。そんなふうに変わった自分の目からそれまでの自分の現状を見つめてみた時に、なんなんだこれは、と失望してしまうことはきっと、ありふれたことなのだと思う。その失望が、現状の自分にまつわるものすべてを破壊する。変化は破壊から始まるのだ。なにもかも保存したままに変わることはできない。

映画『コンスタンティン』をみたが、劇中で描かれる判断基準が新鮮でよかった。すべては善悪と規則の原理によって解釈される。最近の私が失っていた視点だった。かつての私は、自己犠牲を喜びとして生きていた。だが、自己犠牲は辛いだけでなく、自分の人生を傷付けるということも知りつつあった。劇中では、自己犠牲は神の国に入る資格を得るための徳を積む行為である。きっと、自己犠牲をすればするほど早く神の国に行けるのだと思う。私は病気になることで、これ以上の自己犠牲を避けて、生き永らえることを選んだ。

人間であること、善を為すこと、悪を為すことの3つはきっと、中庸の精神のもとになされねばならない。志を高く持つこと、自己犠牲の精神を発揮することは喜びをもたらすが、人間の身には重すぎる。欲望を満たすこと、知を求めることは人間の本能であり生きることそのものであるとも言えるが、度が過ぎれば苦しみを生む。それでいて、人間である以上、社会的存在としての制約や肉体を持つことによる制約を引き受けなければならない。

ここ最近の疲労感は、珍しく自己犠牲のギアを上げてしまっていたからなのだろう。人間として生きるのには、自己犠牲の強さは摩擦となる。この半年ほど、あえて自分を許すことによって人間としての自分が生きやすくなるよう調整していた。このように振り返ってみると、最近の気の荒みも心安らかに捉えることができるようになった。

私が変化の途上にあることは今後もしばらくは変わらない。その過程で多くのものを破壊し、私自身苦しむこともあるだろう。それでも、志と信念を灯台の光として、その方向に進み続けることはやめない。それ以外の生き方を私は知らないし、それ以外の生き方をしている人間で幸福そうに見える者はいまのところ知らないからだ。多くの者が、人生の方向性を見失っているようにみえる。だが、昔と違うのは、私が人間として生きるのに慣れてきたことである。今回の変化でまたひとつ成長することができた。

ここ数日の出来事と会った人々の人生に対して、私の糧になってくれたことを感謝したい。

3/13 妻との約束

今日はまーちゃん(妻)と将来について話し合った。今の環境はベストではないので、ゆくゆくはより望ましい環境に移行することを決めた。下記2点が合意事項である。

・東京は寒くて、私の体と病気に悪い。もっと暖かい気候の地域に移動しよう。

・雇われ仕事では夫婦や家族の時間が取れない。まーちゃん(妻)は将来、個人事業主として稼ぐことをめざす。

 

そのための移行期間として10年間を見込む。ここから10年後までに私に課された宿題は、下記2点である。

・会社の拠点に限定されずに、世界の特定の場所で働くことができ、キャリアの広がりもある能力を身に付ける。

・海外に住むための実験をする。

 

さらにここ5年間のタスクは、下記3点である。

・私が健康を維持できるための条件を洗い出す。

・必ず海外に実験をしにいく。

・職場環境を柔軟に変えられるような、労働市場における位置付けをめざす。

 

当面の大まかな目安期間を立てることができた。ここから、私はずぼらで〆切ぎりぎりまで手を付けない性格なので、5年間をさらに細分化して、各期間の目標を立てていこうと思う。

 

Q;そんな計画で60歳になった時に生活できるのか?

A;私が今いる場所から見る景色に基づいて、最も合理的な選択をすれば、同じ会社で働き続けることが合理的であると思う。だが、今はあまりに情報が不足している。その場所に立たなければ見えない景色もきっとあるはずである。そのため、今いる場所からあまりに遠くのことを考えても意味がない。「定期的に振り返る習慣を付ける」ことを、この答えに対するセカンドベストの回答とする。

 

Q;本当にうまくいくのか?もっと現実的に考えたほうがいいのではないか?

A;未来は何が起こるかわからない。20年前に巨大電機メーカーに入社した新入社員が、「この会社に一生貢献するぞ!」と決めたとしたら、それは現実的な目標ではなかった。同様に、私が「最初に入社した会社に一生貢献するぞ!」と決めたとしても、「(自分の限界を定めて)転職できるところに何回か転職しよう!」と決めたとしても、本当に現実的な目標だと言えるだろうか?

私は最大限考えを尽くしながら、自分なりにもっとも現実的で、より望ましい選択肢を作り出し、それに向かって行動しようとしている。もし、もっと起こりうる確率の高い未来予測を教えてくれるならぜひ教えてほしい。「そんなことは自分で考えろ」というなら、もうすでにやっている。

 

Q;失敗しない保証はあるのか?

A;失敗しない保証はないどころか、最初は絶対に失敗することを約束しよう。残念ながら私は、1回目で自転車を乗りこなしたり、授業を受けずに二次関数の概念を理解するほどの才能がない凡人である。だからこそ、失敗できるうちにたくさん失敗して、実験できるうちにいっぱい実験をしようと思う。この10年間のうちに、失敗する前提で取り組みながら修正を繰り返して、なんとか正しい方向を探り当てられたらと思う。質的研究で言えば探索的なアプローチを繰り返して、ビジネスで言えばPDCAを回すことによって、才能不足を補って目標を達成したい。でもきっと大丈夫だろう。私でも自転車に乗れたし、二次関数を理解できたのだから。

3/12 人付き合いのルール変更について

先日まーちゃん(妻)の親友とその彼氏と会った時に、今度会って話したいねという話をした。その後、お互いに連絡を取ることがなかったが、思い立って連絡をしたいとまーちゃん(妻)に伝えた。まーちゃん(妻)は私のLINEアカウントを、親友を通して彼に伝えた。その後音沙汰がなかったので、私がまーちゃん(妻)を通じて親友から彼のLINEアカウントを聞いた。彼にLINEで連絡し、「今度会おう!」「是非!」というところまでは良かったが、私が都合のいい日時を伝えた後に、また音沙汰がなくなった。しばらくして(今日)、彼から「遅くなってごめん、いついつはどう?」と返信がきた。

 

それに対して私が返信をしようとしたところ、まーちゃん(妻)が「ちょっと待ちな、」と静止した。まーちゃん(妻)いわく、

・私は傷付きやすい人間なので、余計なことで傷付く機会を作って欲しくない。

・こんなに遅く返信してきたということは、その程度にしか見られていない証拠。これで普通に返信すれば、「この程度の扱いでいいんだ」と見くびられてしまう。

・相手は23歳。自分にとって何が大事かまだわかっていないのだろう。そんな人に会うだけの価値があるだろうか。

・彼からしてみれば、私は彼女の親友の旦那であり、その私を軽く扱うことが、まーちゃん(妻)と親友の関係にひびを入れることは考えたらわかるはず。それにもかかわらずこんな扱いをするのは普通の人間としての常識もない可能性がある。

・私にとって彼と会うことはどれほどの価値があるのか?連絡を取った時には会うだけの価値があると考えることもできたが、もはやその価値はほとんどなくなってしまっているのではないか。

 

・なにより、嫌なことは嫌なこと、喜ばしいことは喜ばしいことと、その都度相手に感情を表明しなければ、溜め込む自分にもストレスが溜まるし、相手が学習して二度も三度も同じことを繰り返される。自分の感情をしっかりと相手に伝えておいたほうがいい。

 

これらのことを教えられた。

確かに、私はどんなに時間を共にすることが無意味だと思っている相手でも、その場ではひたすら耐えて我慢する習慣がある。今回も、まーちゃん(妻)に言われなければ気付かなかった。私がこのような習慣を持っているのはたぶん、その都度相手からレスポンスをもらった時に、①なるべく相手に非を認めて責めるのではなく、むしろ自分自身に落ち度がなかったかを反省し、②都度の相手の失敗に基づいて評価を下げるのではなく、なるべく相手を信じて評価を維持する、というやり方をしてきたからだと思う。

このような生き方をし続けることは、私自身の精神にかなり重いストレスをかけ続けてきたのだろう。

 

だが、どうやら私はもういい人であるのをやめたわけだから、自分より人間性に劣る人間に対して、懇切丁寧に相手をする必要はないのだ。これまでは、品位が低いからこそ簡単に、私のことを格下だと思うことができた人々に、最高の配慮を提供し続ける必要はない。私はもう聖人並の態度を自分自身に課す必要はない。普通の人間として生きていいのだ。人間としての水準を人並みに戻すことを、これまではなるべく避けて生きてきたが、それによって私自身が毒され、損なわれてきた事実に対して、私は自己を救済してもいいのだ。

 

改めて、私が私の中に取り入れる他者の言葉や付き合いは、愛の感じられる言葉や付き合いであるなら受け入れ、エゴイズムの発露に過ぎないものであるなら拒絶し、断絶する。このルールを再確認する。加えて、その都度の私自身の感情を素直に表明することを私自身に許可する、というルールも付け加えよう。

 

これによって、私は全てを受け入れ、全てを背負う人間で居続けるのを辞めて、私を必要としてくれ、私自身もまた必要とする相手とだけ付き合うことができる。相手にしてくれる人間なら誰でもいい、という相手は私の人生から消え去っていく。私だからこそ会いたいと言ってくれる人間と、私が会いたいと思う人間との関係性のネットワークを新たに築き上げ、私にしか生きられない人生を過ごしている時間を増やしていく。

「私にしか過ごせない時間や関係」こそが、人生の中で最も価値の高い“生”であり、この時間や関係を実現できないということこそが、不幸であり、迷惑であり、無意味なのだと思う。これ以外の「不幸」や「迷惑」は一段レベルの低いものだ。

 

このことを再確認できただけでも、まーちゃん(妻)の親友の彼氏の存在に感謝したい。ありがとう、そしてさようなら。

3/11 体のリズムとこの2ヶ月の過ごし方についての覚え書き

私はある特定のリズムで体調の悪化と回復を繰り返す。そのことを、これまではあまり意識せずに暮らしてきたが、今後継続して取り組む目標ができたので、意識し、かつ計画に組み込むことにした。

 

ある特定のリズムとは、8週間おきに通院して点滴を受けることだ。この点滴は体の炎症反応を抑える薬で、私の病気の対症療法として効果が大きい。この点滴を受けたあとは体が快調になり、ある程度頑張ることができるようになる。点滴を受けてから6週間経つ頃には効果が薄まり、炎症に伴う悪寒、腹痛、下痢、意欲と食欲の減退などの症状が発生し、椅子に座っていることすら辛い状態になる。この体調が悪い期間は、なんとか入院せずに会社と家の行き帰りをやり遂げることが重要な目標となる。

 

これをふまえて、点滴から2週目〜5週目を「戦力期」と名付けることにする。6週目から点滴までの間は「衰退期」、点滴後1週間は「回復期」と合わせて名付ける。これらは手帳のカレンダーに書き、自分がいま何期にあたるのかを自覚して生活をするようにする。また、実行計画の重要な部分は戦力期に済ませるようにし、衰退期と回復期は単純な事務作業だけを自分に課すことにする。

 

この感覚で行けば、私のいまの戦力期は3月4週目までにあたり、3月5週目から4月3週目までは衰退期、4月3週目から4週目までは回復期となり、次の戦力期は4月5週目から始まることになる。4月はほとんどずっと調整期間として使わざるを得ない。

 

先日日経ビジネススクールの某e-learning講座が始まり、その受講期限が5月2週目の頭なのだが、4月下旬の戦力期から始めると2週間しかない計算となる。単元数が10数個なのでぎりぎりできるかもしれないが、3月の戦力期に完了して、4月に内容を復習する方が体のリズム的に理想的だ。他の特化領域もなるべく3月の戦力期に前進し、4月は一つの特化領域のみに専念するか、自己の反省と再生を通じ、人間的な成長の土台作りに利用した方がいい。4月からは新しく働き始める友人と量的分析の読書会を始めようと思っていたが、それは緩く開始した方がよさそうだ。

 

・・・私の当面の目標はこの先40日間の予定を仔細に計画できるようになること(理想は、1年間の予定を書き起こせる人間になることである)なのだが、やってみるとこれがなかなか難しい。だが、このように体のリズムを前提にすれば、自分にできることとできないことがある程度明確になることで、予定が立てやすくなったようだ。

3/9 確信に満ちた希望

今日はまーちゃん(妻)と、妻の弟君と一緒に外食をしてきた。弟君は大学3年生、私大の体育会系の部活に入っている。南国風の、おおらかで他人想いの性格の人だ。彼も例に漏れず就活の時期で、志望業界をほとんど一つに絞って業界研究している。あと3ヶ月で面接解禁、つまり実質的にあと3ヶ月で就活は決まりだ。

 

彼は志望業界に対する明るい希望と、厳しいところで働きたくないという普通の本音と、会社に入って留学に行けたら格好いいよねという素朴な野心とを語っていた。その希望が眩くて、「転職しやすいかどうかという観点からも見てみたら?」という、ほとんど意味のないアドバイスを口にしてから言わなきゃよかったかもな、と思うほどだった。

 

ひさびさに、大学生の頃の気持ちを思い出した。あの頃は、自分はなんにでもなれるという根拠のない夢想に浸っていて、毎日がいっぱいいっぱいで、とても充実していた。その頃の気持ちを思い出すと、いつも通っている三越前の路地の風景も、なんだか今日だけキラキラ輝いているように見えた。この道をこうして歩いている僕の姿は、昔の僕から見てもまだ輝いているだろうかと、力のない笑顔を浮かべながら歩いて帰ってきた。

 

お風呂の中で、PerfumeのTOKYO GIRLを聴いた。ああ、なんだかこの曲調とこのメッセージは聴いたことがあるなあと思い出し、サカナクションアルクアラウンドも続けて聴いた。この曲は、大学時代によく聴いていた曲で、さっきの夢想に浸っていていっぱいいっぱいだった毎日にぴったりの曲だった。TOKYO GIRLもよくできた曲で、TOKYO GIRLじゃない僕でも、よく同時代人の心情を捉えている曲だなあと感心した。

 

だけど、当事者じゃない僕でさえ理解できる曲の心情というのは、出版された本と同じで、最先端のものではなく、すでに普及しきって蔓延している心情なんだ。それをよくわかるからこそ、ああ、これは僕らが乗り越えていかなければいけない“古い”今なんだ、とも感じた。僕らが向き合っている問題は、これから先の生きるモデルがないということで、それは今後数年経つとますます心の重荷として積み重なってくるだろう問題なんだ。

 

生きるモデルってなにかと言えば、それはきっと歌であったり、言葉であったり、匂いであったり、心の昂りや高揚感であったりで、総じて五感で感じるものなのだと思う。五感で感じる同時代性が、僕らが生きている今ここに根付いているということ。この時空間が僕らの記憶となり、振り返ることができる過去となり、未来を照らす希望になるのだと思う。

 

僕には今そんなモデルはなく、かといって会社に染まり切るのも嫌で、意識を高く保つことで僕の外面から揺り動かそうとしているが、中身となる五感を伴っていないわけだから、なんだかぎこちないなあ、と思ってしまう。4月になると、働き出してから2年目の年が始まってしまう。僕は今、なるべく足場をたくさん作ろうと試みている。

 

そのようにする理由は、なんとなく次のように予感しているからだ。僕自身が引き裂かれるほどに、いろんな僕自身を生きることによって、その裂け目から新しい自分が生まれ落ちるのではないかと。その僕は、きっと新しい五感を伴った僕であるに違いない。新たな生きるモデルと、新たな未来への希望を持った僕であると思っている。そうだ、僕がこの1年追い求めていたものは、確信に満ちた希望なのかもしれない。生活の安定や、出世や、人々の尊敬などではなく、ただ確信に満ちた希望が欲しい。きっとそうなのだ。