東北生まれの冷え性金融マン・フミコの日常

クローン病をもつ社会人のブログです。健康のこと、仕事のこと、家庭のこと、キャリアのこと、なんでも思ったことを書いてます。

3/13 妻との約束

今日はまーちゃん(妻)と将来について話し合った。今の環境はベストではないので、ゆくゆくはより望ましい環境に移行することを決めた。下記2点が合意事項である。

・東京は寒くて、私の体と病気に悪い。もっと暖かい気候の地域に移動しよう。

・雇われ仕事では夫婦や家族の時間が取れない。まーちゃん(妻)は将来、個人事業主として稼ぐことをめざす。

 

そのための移行期間として10年間を見込む。ここから10年後までに私に課された宿題は、下記2点である。

・会社の拠点に限定されずに、世界の特定の場所で働くことができ、キャリアの広がりもある能力を身に付ける。

・海外に住むための実験をする。

 

さらにここ5年間のタスクは、下記3点である。

・私が健康を維持できるための条件を洗い出す。

・必ず海外に実験をしにいく。

・職場環境を柔軟に変えられるような、労働市場における位置付けをめざす。

 

当面の大まかな目安期間を立てることができた。ここから、私はずぼらで〆切ぎりぎりまで手を付けない性格なので、5年間をさらに細分化して、各期間の目標を立てていこうと思う。

 

Q;そんな計画で60歳になった時に生活できるのか?

A;私が今いる場所から見る景色に基づいて、最も合理的な選択をすれば、同じ会社で働き続けることが合理的であると思う。だが、今はあまりに情報が不足している。その場所に立たなければ見えない景色もきっとあるはずである。そのため、今いる場所からあまりに遠くのことを考えても意味がない。「定期的に振り返る習慣を付ける」ことを、この答えに対するセカンドベストの回答とする。

 

Q;本当にうまくいくのか?もっと現実的に考えたほうがいいのではないか?

A;未来は何が起こるかわからない。20年前に巨大電機メーカーに入社した新入社員が、「この会社に一生貢献するぞ!」と決めたとしたら、それは現実的な目標ではなかった。同様に、私が「最初に入社した会社に一生貢献するぞ!」と決めたとしても、「(自分の限界を定めて)転職できるところに何回か転職しよう!」と決めたとしても、本当に現実的な目標だと言えるだろうか?

私は最大限考えを尽くしながら、自分なりにもっとも現実的で、より望ましい選択肢を作り出し、それに向かって行動しようとしている。もし、もっと起こりうる確率の高い未来予測を教えてくれるならぜひ教えてほしい。「そんなことは自分で考えろ」というなら、もうすでにやっている。

 

Q;失敗しない保証はあるのか?

A;失敗しない保証はないどころか、最初は絶対に失敗することを約束しよう。残念ながら私は、1回目で自転車を乗りこなしたり、授業を受けずに二次関数の概念を理解するほどの才能がない凡人である。だからこそ、失敗できるうちにたくさん失敗して、実験できるうちにいっぱい実験をしようと思う。この10年間のうちに、失敗する前提で取り組みながら修正を繰り返して、なんとか正しい方向を探り当てられたらと思う。質的研究で言えば探索的なアプローチを繰り返して、ビジネスで言えばPDCAを回すことによって、才能不足を補って目標を達成したい。でもきっと大丈夫だろう。私でも自転車に乗れたし、二次関数を理解できたのだから。

3/12 人付き合いのルール変更について

先日まーちゃん(妻)の親友とその彼氏と会った時に、今度会って話したいねという話をした。その後、お互いに連絡を取ることがなかったが、思い立って連絡をしたいとまーちゃん(妻)に伝えた。まーちゃん(妻)は私のLINEアカウントを、親友を通して彼に伝えた。その後音沙汰がなかったので、私がまーちゃん(妻)を通じて親友から彼のLINEアカウントを聞いた。彼にLINEで連絡し、「今度会おう!」「是非!」というところまでは良かったが、私が都合のいい日時を伝えた後に、また音沙汰がなくなった。しばらくして(今日)、彼から「遅くなってごめん、いついつはどう?」と返信がきた。

 

それに対して私が返信をしようとしたところ、まーちゃん(妻)が「ちょっと待ちな、」と静止した。まーちゃん(妻)いわく、

・私は傷付きやすい人間なので、余計なことで傷付く機会を作って欲しくない。

・こんなに遅く返信してきたということは、その程度にしか見られていない証拠。これで普通に返信すれば、「この程度の扱いでいいんだ」と見くびられてしまう。

・相手は23歳。自分にとって何が大事かまだわかっていないのだろう。そんな人に会うだけの価値があるだろうか。

・彼からしてみれば、私は彼女の親友の旦那であり、その私を軽く扱うことが、まーちゃん(妻)と親友の関係にひびを入れることは考えたらわかるはず。それにもかかわらずこんな扱いをするのは普通の人間としての常識もない可能性がある。

・私にとって彼と会うことはどれほどの価値があるのか?連絡を取った時には会うだけの価値があると考えることもできたが、もはやその価値はほとんどなくなってしまっているのではないか。

 

・なにより、嫌なことは嫌なこと、喜ばしいことは喜ばしいことと、その都度相手に感情を表明しなければ、溜め込む自分にもストレスが溜まるし、相手が学習して二度も三度も同じことを繰り返される。自分の感情をしっかりと相手に伝えておいたほうがいい。

 

これらのことを教えられた。

確かに、私はどんなに時間を共にすることが無意味だと思っている相手でも、その場ではひたすら耐えて我慢する習慣がある。今回も、まーちゃん(妻)に言われなければ気付かなかった。私がこのような習慣を持っているのはたぶん、その都度相手からレスポンスをもらった時に、①なるべく相手に非を認めて責めるのではなく、むしろ自分自身に落ち度がなかったかを反省し、②都度の相手の失敗に基づいて評価を下げるのではなく、なるべく相手を信じて評価を維持する、というやり方をしてきたからだと思う。

このような生き方をし続けることは、私自身の精神にかなり重いストレスをかけ続けてきたのだろう。

 

だが、どうやら私はもういい人であるのをやめたわけだから、自分より人間性に劣る人間に対して、懇切丁寧に相手をする必要はないのだ。これまでは、品位が低いからこそ簡単に、私のことを格下だと思うことができた人々に、最高の配慮を提供し続ける必要はない。私はもう聖人並の態度を自分自身に課す必要はない。普通の人間として生きていいのだ。人間としての水準を人並みに戻すことを、これまではなるべく避けて生きてきたが、それによって私自身が毒され、損なわれてきた事実に対して、私は自己を救済してもいいのだ。

 

改めて、私が私の中に取り入れる他者の言葉や付き合いは、愛の感じられる言葉や付き合いであるなら受け入れ、エゴイズムの発露に過ぎないものであるなら拒絶し、断絶する。このルールを再確認する。加えて、その都度の私自身の感情を素直に表明することを私自身に許可する、というルールも付け加えよう。

 

これによって、私は全てを受け入れ、全てを背負う人間で居続けるのを辞めて、私を必要としてくれ、私自身もまた必要とする相手とだけ付き合うことができる。相手にしてくれる人間なら誰でもいい、という相手は私の人生から消え去っていく。私だからこそ会いたいと言ってくれる人間と、私が会いたいと思う人間との関係性のネットワークを新たに築き上げ、私にしか生きられない人生を過ごしている時間を増やしていく。

「私にしか過ごせない時間や関係」こそが、人生の中で最も価値の高い“生”であり、この時間や関係を実現できないということこそが、不幸であり、迷惑であり、無意味なのだと思う。これ以外の「不幸」や「迷惑」は一段レベルの低いものだ。

 

このことを再確認できただけでも、まーちゃん(妻)の親友の彼氏の存在に感謝したい。ありがとう、そしてさようなら。

3/11 体のリズムとこの2ヶ月の過ごし方についての覚え書き

私はある特定のリズムで体調の悪化と回復を繰り返す。そのことを、これまではあまり意識せずに暮らしてきたが、今後継続して取り組む目標ができたので、意識し、かつ計画に組み込むことにした。

 

ある特定のリズムとは、8週間おきに通院して点滴を受けることだ。この点滴は体の炎症反応を抑える薬で、私の病気の対症療法として効果が大きい。この点滴を受けたあとは体が快調になり、ある程度頑張ることができるようになる。点滴を受けてから6週間経つ頃には効果が薄まり、炎症に伴う悪寒、腹痛、下痢、意欲と食欲の減退などの症状が発生し、椅子に座っていることすら辛い状態になる。この体調が悪い期間は、なんとか入院せずに会社と家の行き帰りをやり遂げることが重要な目標となる。

 

これをふまえて、点滴から2週目〜5週目を「戦力期」と名付けることにする。6週目から点滴までの間は「衰退期」、点滴後1週間は「回復期」と合わせて名付ける。これらは手帳のカレンダーに書き、自分がいま何期にあたるのかを自覚して生活をするようにする。また、実行計画の重要な部分は戦力期に済ませるようにし、衰退期と回復期は単純な事務作業だけを自分に課すことにする。

 

この感覚で行けば、私のいまの戦力期は3月4週目までにあたり、3月5週目から4月3週目までは衰退期、4月3週目から4週目までは回復期となり、次の戦力期は4月5週目から始まることになる。4月はほとんどずっと調整期間として使わざるを得ない。

 

先日日経ビジネススクールの某e-learning講座が始まり、その受講期限が5月2週目の頭なのだが、4月下旬の戦力期から始めると2週間しかない計算となる。単元数が10数個なのでぎりぎりできるかもしれないが、3月の戦力期に完了して、4月に内容を復習する方が体のリズム的に理想的だ。他の特化領域もなるべく3月の戦力期に前進し、4月は一つの特化領域のみに専念するか、自己の反省と再生を通じ、人間的な成長の土台作りに利用した方がいい。4月からは新しく働き始める友人と量的分析の読書会を始めようと思っていたが、それは緩く開始した方がよさそうだ。

 

・・・私の当面の目標はこの先40日間の予定を仔細に計画できるようになること(理想は、1年間の予定を書き起こせる人間になることである)なのだが、やってみるとこれがなかなか難しい。だが、このように体のリズムを前提にすれば、自分にできることとできないことがある程度明確になることで、予定が立てやすくなったようだ。

3/9 確信に満ちた希望

今日はまーちゃん(妻)と、妻の弟君と一緒に外食をしてきた。弟君は大学3年生、私大の体育会系の部活に入っている。南国風の、おおらかで他人想いの性格の人だ。彼も例に漏れず就活の時期で、志望業界をほとんど一つに絞って業界研究している。あと3ヶ月で面接解禁、つまり実質的にあと3ヶ月で就活は決まりだ。

 

彼は志望業界に対する明るい希望と、厳しいところで働きたくないという普通の本音と、会社に入って留学に行けたら格好いいよねという素朴な野心とを語っていた。その希望が眩くて、「転職しやすいかどうかという観点からも見てみたら?」という、ほとんど意味のないアドバイスを口にしてから言わなきゃよかったかもな、と思うほどだった。

 

ひさびさに、大学生の頃の気持ちを思い出した。あの頃は、自分はなんにでもなれるという根拠のない夢想に浸っていて、毎日がいっぱいいっぱいで、とても充実していた。その頃の気持ちを思い出すと、いつも通っている三越前の路地の風景も、なんだか今日だけキラキラ輝いているように見えた。この道をこうして歩いている僕の姿は、昔の僕から見てもまだ輝いているだろうかと、力のない笑顔を浮かべながら歩いて帰ってきた。

 

お風呂の中で、PerfumeのTOKYO GIRLを聴いた。ああ、なんだかこの曲調とこのメッセージは聴いたことがあるなあと思い出し、サカナクションアルクアラウンドも続けて聴いた。この曲は、大学時代によく聴いていた曲で、さっきの夢想に浸っていていっぱいいっぱいだった毎日にぴったりの曲だった。TOKYO GIRLもよくできた曲で、TOKYO GIRLじゃない僕でも、よく同時代人の心情を捉えている曲だなあと感心した。

 

だけど、当事者じゃない僕でさえ理解できる曲の心情というのは、出版された本と同じで、最先端のものではなく、すでに普及しきって蔓延している心情なんだ。それをよくわかるからこそ、ああ、これは僕らが乗り越えていかなければいけない“古い”今なんだ、とも感じた。僕らが向き合っている問題は、これから先の生きるモデルがないということで、それは今後数年経つとますます心の重荷として積み重なってくるだろう問題なんだ。

 

生きるモデルってなにかと言えば、それはきっと歌であったり、言葉であったり、匂いであったり、心の昂りや高揚感であったりで、総じて五感で感じるものなのだと思う。五感で感じる同時代性が、僕らが生きている今ここに根付いているということ。この時空間が僕らの記憶となり、振り返ることができる過去となり、未来を照らす希望になるのだと思う。

 

僕には今そんなモデルはなく、かといって会社に染まり切るのも嫌で、意識を高く保つことで僕の外面から揺り動かそうとしているが、中身となる五感を伴っていないわけだから、なんだかぎこちないなあ、と思ってしまう。4月になると、働き出してから2年目の年が始まってしまう。僕は今、なるべく足場をたくさん作ろうと試みている。

 

そのようにする理由は、なんとなく次のように予感しているからだ。僕自身が引き裂かれるほどに、いろんな僕自身を生きることによって、その裂け目から新しい自分が生まれ落ちるのではないかと。その僕は、きっと新しい五感を伴った僕であるに違いない。新たな生きるモデルと、新たな未来への希望を持った僕であると思っている。そうだ、僕がこの1年追い求めていたものは、確信に満ちた希望なのかもしれない。生活の安定や、出世や、人々の尊敬などではなく、ただ確信に満ちた希望が欲しい。きっとそうなのだ。

3/5 自分の専門性を決める

『ワーク・シフト』を熟読した。

その中にある「第一のシフト」は、自分自身の専門分野を複数決めて、その知識と経験を磨き、組み合わせることによって、自分の独自な価値を確立することを意味する。専門分野を決める時に大事なことは、未来の世界を想像し、そこにおいて需要が大きく・希少性の高い専門分野を選ぶことである。

そこで、まずは『ワーク・シフト』第1章「未来を形づくる5つの要因」を参考にしながら、未来に起こることを自分なりに考えた。

 

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(付箋1枚ごとに未来に起こる出来事と考察を書き、並べている図)

 

この未来予想をふまえ、さらに、自分が得意なこと、自分がしてると楽しいこと、スキルを磨きたいと思っていること、などの観点から、以下4つの特化領域を決めた。

 

1 造園業、左官業についての知識と関連する法律、経営に関する知識

いまいる金融業界で磨くことができる知識は、財務諸表を読んで企業の動向を掴んだり企業価値を評価したり、特定の産業の歴史を知り、関連する法制(会社法+各種規制)に詳しくなることである。単に「金融マンとしての知識」と一般化せず、業種まで絞ったのは、未来において特に造園業と近隣分野の価値が高まると考えたからだ。最近「グリーンインフラ」に関する本が出版されたが、近い未来においてホワイトカラーの定型業務はすべてAIに取って代わられると予想できる。その時に人間に残された仕事は感性に関わるものである。グリーンインフラ、すなわち都市における緑化空間の設計は、人間の感性に関わるものであり、AIに取って代わられるのはかなり後になってからだと考えられる。かつ、これからの時代(2030年代以降)は気候変動と環境問題に関わる切迫感が今よりも高まると思うので、今のうちから特化領域として自分自身に教育投資をしておくことに決めた。

 

2 都市空間に関わる社会科学の知識

指導教員の専門でありながら今までとくに専攻してこなかった、都市にかかわる社会科学について取り組み始めたいと思う。一つには、部署の仕事の一つである不動産紹介業務に関わるものであり、部署内における自分の専門の確立に役立つという理由がある。また、金融に携わりながら都市社会学を研究する研究者が日本にはほとんどいなそうなので、独自の価値を実現できるのではないかという思惑もある。加えて、上記1のグリーンインフラの意義を検討するためにも、この分野を特化領域の一つにすることに決めた。

 

3 分析マンになること=データサイエンスに入門する

未来では、現在よりも私たちの周りに溢れる情報量が膨大になるだろう。その理由として、IoTの普及が挙げられる。IoTは人間が生活する空間や働く空間にあるモノすべてにセンサーを設置し、計測した情報をデータとして活用しようという思想だと思う。思うに、IoTの導入自体は簡単だが、そのデータをどう利用すればいいか多くの人が困るだろう。そのため、膨大なデータを要約し、意味を見出す人=データサイエンティストの需要が高まる。だからその仕事をすることができれば、相対的に自分の市場価値も高まる。

だが読者は疑問に思うだろう、社会学出身(=定性的な分析しかできず統計の基礎もあやふや)な私がデータサイエンティストになどなれるのか?と。確かに、計量的な分析を得意とするのは理数系・経済学系を専攻していた人間だし、現時点の私の知識や技能は大学生以下である。だが、上記1の経験により(中小)企業経営者と話したり、特定の産業の歴史や取引慣行、関連法制について詳しくなることで、戦う場所さえ選べば自分の優位性を発揮できると考えられはしないか?何も、誰もが複雑な金融工学機械学習に詳しくなる必要はない。実務で使う統計学はもっと簡単で、むしろ市場動向や企業経営、業界慣行に関する知識の方が重要だと私は考えている。

 

4 表現力を含むコミュニケーションデザインに関する知識

これは自分の得意分野を伸ばそうというものである。普段から文章やパワーポイントの使い方を褒められることが多く、また、大学時代から実はプレゼンテーションや(表現における)デザインについては関心を持って取り組んできた。大学時代に毎週英語でプレゼンテーションをする授業を1年間受けて、そこで課題図書として渡された洋書数冊を、いつか読みたいと思っていたというのもある。いよいよ実行に移そうというわけだ。一番効率がいい投資は投資単位あたりの収穫が大きいものへの投資である。

 

以上4つの特化領域を念頭に置き、今後50年、60年の稼ぎ方を構想したいと思う。これは宣言である。私の目標は、分析力と発言力のある社会起業家(=社会的課題をビジネスを通じて解決することを目指す実務家)になることであり、行動力と実践に裏打ちされた研究家になることである。

 

物事を成し遂げるためには、追い風と向かい風にうまく対処することが重要である。追い風(=成功体験や応援する言葉、磨き合える同志)をうまく捉え、向かい風(=逆境や多くの失敗、体調不良や冷笑する言葉、無理解な人々)を退けて航海しよう。

 

また、誰もが反対しない変化は本当の変化ではなく、誰もが馬鹿にしない挑戦は本当の挑戦ではない。いまあるものの中できれいにまとめようとすると人生は小さくまとまってしまう。自らを振り返り、必要があるならばそれまでの安定を捨てて、果敢に断崖を跳ぼう。

 

とはいえ、すぐに何者かになれるわけではないので、自分のペースで地道に進んでいこう。重要なのは同時点の他人と比べることではなく、過去時点の自分と比べて進んだかどうかである。

 

これで自分自身に言いたい激励の言葉はだいたい言い終わった。引き続き、人生を楽しもう!

2/27 「とりあえず3年」ではなく「最初の10年賭けるべき場所か」

リンダ・グラットン『ワークシフト』の冒頭を読んだ。

最初の分析は2010年代と1990年の一日の働き方の比較である。要点は以下の通り。

・テクノロジーの進歩により、いつでもどこでも誰とでもつながることができる時代になった。

・それに伴い、仕事は自分の時間の自由さを奪い、時間はより細切れになっていく。

・時間が細切れになることは、自分の能力や技能の専門性・熟練度を高めることを難しくする。(例:「1万時間仮説;一定の技能を得るためには1万時間費やすことが必要である」)

・専門技能を身に付けなければ、労働市場における自分の価値のステップアップ(=第1のワークシフト)を図ることができない。

 

まずは分析に関する感想。妥当かつ私にとって理想的な分析である。

比較の根拠は著者の主観、インタビュー等であり、定量的な調査に慣れている者には物足りないかもしれない。だが、マクロ社会レベルの定量的な分析は、調査設計の基となる理論仮説と測定方法が広く社会インフラとして整備されている必要があり、知見に最初から限界がある。

かつ、定性的な分析あるいは解釈(今回で言えば、「1990年当時に比べ、コミュニケーションにおけるテクノロジーの進歩によって、1つ1つの仕事に向けられる時間が細切れとなることで専門技能の向上を図ることが難しくなる」)は、人間の感性によって捉えることができる、生活全体の変容に対する気付きに基づくが、これは最初から定量的な枠組みで分析をしようとすると一生辿り着かない知見である。

 

このような、現時点では当たり前になりすぎていて誰も気に留めない変化を、過去との比較によって明らかにする分析は、社会学が得意とするものであり、私が好きなものだ。

 

次に、自分のキャリアに対するインプリケーション(=日常に還元できる知見)。

私のキャリア観の前提として、私は退職するまでに3つか4つの専門性を獲得し、その組み合わせの独自性によって市場価値向上を図る(=キャリアの三角性、これはどこかでまた書くかもしれない)。

『ワークシフト』の予言通り、これからの時代ますます専門技能を高めることが難しくなるのであれば、なおさら意識的に自らの専門性を自覚して働く必要がある。

その専門技能を身に付けるためには、目安として10年間1つの分野に取り組む必要がある(ただし、漫然とおなじ会社で働くことを意味しない。これは『グリット』にも類似の記述がある)。

 

では、その最初の10年間をどの分野において過ごすべきか?私の意見では、20代に課されている問いはこれである。

暫定的にこう考えよう。

今の会社(業界、分野)は1つ目の専門性として10年間を賭けるにふさわしいところか?最初の会社か、次の会社か、次の次の会社か、いずれにしろ20代の終わりまでに、最初の10年間の居場所となる分野に入り込むべきである。

 

思うに、「とりあえず3年」は、日系企業の人事部と多くのおっさんにとって理解可能な言語である。20代のビジネスマンにとって、より妥当な基準は、「最初の10年間を賭けるべき場所か?」ではないだろうか。

 

*補足

2つ目、3つ目の専門性の候補となる分野にも、入らないにしろ親しくなっておく必要がある。これはドラッカー『プロフェッショナルの条件』に類似の記述がある。

2/13 精神に遊びの部分を取り入れること

私は見ての通り昔から真面目な人間だったのだが、真面目さのあまり自分のことを追い詰めがちなところがある。

もともと、そんなに頭が早く回らない上に、人に比べて体力がないので、自分が決めた規律に神経が悲鳴を上げてしまうのだ。

それでも前へ、前へ、とむりやり動かすことが美徳だと思っているので、どんどん歩むスピードが遅くなり、一日に進む距離も縮んで行く。そんな特徴があった。

 

最近は、真面目さだけでは生きていけないことを学びつつある。

私の「真面目さエンジン」は、瞬間的に爆発力を発揮する高性能の製品だ。私の融通の利かなさ、理想の高さ、昔から読んできた古典的な自己啓発本の思想を素材に構成され、自分より優れた人の姿や意識の高い言葉、最近の自己啓発本などをガソリンに動く。

 

「真面目さエンジン」の快感の源は、あらゆる外部環境を物ともせず自分の思い描いた道を突き進み、邪魔になった障害物を次々と蹴散らす無敵感である。そして、自らの信仰に対する確信が癒しとなる。 

 

ただ一つの欠点は、冷却しきれないほどの高温となり、しばしば車体を融かして再起不能になることだ。その最たるものは高校時代に病気になったことだ。

 

高校時代の反省を生かし、私はしばらく自分の「真面目さエンジン」を封印することにした(実際は、しばしば暴発することもあったが)。代わって大学時代に生きる術としたのは、成り行きに身を委ねて即興で返答する反射神経だった。

 

あらゆるものを拒まず、全てを受け止め、当意即妙に応える(もっとも、そんな器用な人間ではなかったが)ことが理想であり、流れに身を任せながらも流れの中で溺れずに、自らを活かすことを理想とした。

 

そこで快感であったのは、ある瞬間から次の瞬間へ移る時の場面転換の大きさである。「なぜ私はこんなところでこんなことをしているのだろうか」と感じることが、最大限の賛辞であった。

 

成り行きに身を任せる反射神経の欠点は、自分というものを持つことができないことにある。大学時代ならそれでもよかったが(期間が限定された平和の箱庭)、大学と違って悪影響をもたらすくだらない人間も大量に生息している実社会において、成り行きに身を任せること、自分を持たないことは、自分の価値を粗末に切り捨てていく危険性をはらんでいる。

 

私は働きだしてから、再び真面目さエンジンを頼りに生きていこうとしてきたが、それがもともと持っている欠点のために、いままた体調にひずみをもたらしている。私に足りないものは遊び心や心の余裕、柔軟性だと思い、先日ロジェ・カイヨワの『遊びと人間』を購入した。

 

カイヨワは遊びの分類としてアゴン(競争)、アレア(運)、ミミクリ(模擬)、イリンクス(眩暈)の4類型を提示する。

 

ここまで書いてみて、私の真面目さエンジンは、アゴンとミミクリに属し、私の成り行き任せの反射神経は、アレアとイリンクス(加えてミミクリも?)に属しているように思われる。(真面目さエンジンは遊びではないから違うだろうか・・・?)

 

いまの自分にわかっていることは、私の生きる方向性自体は間違っていないということ、だが真面目さ一辺倒では関係も滞るし身体や精神にも負担が大きすぎるということである。

 

今夜は思い切って、真面目であることをやめた。怠けている。

 

いまの自分にわかっていないことは、生活に適応した(理想的な)精神のメカニズムである。真面目さエンジンが行き詰まりつつある時に(それは同時に、自律神経の乱れも生じさせる)、いかなる比喩的な精神の動きによって再噴射、軌道修正、再度軌道に乗せればいいのだろうか。

 

いつか気付きが降ってくるだろうけど、いまはまだわからない。きっとそれは私に教養が足りないからだと思うのだ。