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東北生まれの冷え性金融マン・フミコの日常

クローン病をもつ新社会人のブログです。健康のこと、仕事のこと、家庭のこと、キャリアのこと、なんでも思ったことを書いてます。

2/27 「とりあえず3年」ではなく「最初の10年賭けるべき場所か」

リンダ・グラットン『ワークシフト』の冒頭を読んだ。

最初の分析は2010年代と1990年の一日の働き方の比較である。要点は以下の通り。

・テクノロジーの進歩により、いつでもどこでも誰とでもつながることができる時代になった。

・それに伴い、仕事は自分の時間の自由さを奪い、時間はより細切れになっていく。

・時間が細切れになることは、自分の能力や技能の専門性・熟練度を高めることを難しくする。(例:「1万時間仮説;一定の技能を得るためには1万時間費やすことが必要である」)

・専門技能を身に付けなければ、労働市場における自分の価値のステップアップ(=第1のワークシフト)を図ることができない。

 

まずは分析に関する感想。妥当かつ私にとって理想的な分析である。

比較の根拠は著者の主観、インタビュー等であり、定量的な調査に慣れている者には物足りないかもしれない。だが、マクロ社会レベルの定量的な分析は、調査設計の基となる理論仮説と測定方法が広く社会インフラとして整備されている必要があり、知見に最初から限界がある。

かつ、定性的な分析あるいは解釈(今回で言えば、「1990年当時に比べ、コミュニケーションにおけるテクノロジーの進歩によって、1つ1つの仕事に向けられる時間が細切れとなることで専門技能の向上を図ることが難しくなる」)は、人間の感性によって捉えることができる、生活全体の変容に対する気付きに基づくが、これは最初から定量的な枠組みで分析をしようとすると一生辿り着かない知見である。

 

このような、現時点では当たり前になりすぎていて誰も気に留めない変化を、過去との比較によって明らかにする分析は、社会学が得意とするものであり、私が好きなものだ。

 

次に、自分のキャリアに対するインプリケーション(=日常に還元できる知見)。

私のキャリア観の前提として、私は退職するまでに3つか4つの専門性を獲得し、その組み合わせの独自性によって市場価値向上を図る(=キャリアの三角性、これはどこかでまた書くかもしれない)。

『ワークシフト』の予言通り、これからの時代ますます専門技能を高めることが難しくなるのであれば、なおさら意識的に自らの専門性を自覚して働く必要がある。

その専門技能を身に付けるためには、目安として10年間1つの分野に取り組む必要がある(ただし、漫然とおなじ会社で働くことを意味しない。これは『グリット』にも類似の記述がある)。

 

では、その最初の10年間をどの分野において過ごすべきか?私の意見では、20代に課されている問いはこれである。

暫定的にこう考えよう。

今の会社(業界、分野)は1つ目の専門性として10年間を賭けるにふさわしいところか?最初の会社か、次の会社か、次の次の会社か、いずれにしろ20代の終わりまでに、最初の10年間の居場所となる分野に入り込むべきである。

 

思うに、「とりあえず3年」は、日系企業の人事部と多くのおっさんにとって理解可能な言語である。20代のビジネスマンにとって、より妥当な基準は、「最初の10年間を賭けるべき場所か?」ではないだろうか。

 

*補足

2つ目、3つ目の専門性の候補となる分野にも、入らないにしろ親しくなっておく必要がある。これはドラッカー『プロフェッショナルの条件』に類似の記述がある。

2/13 精神に遊びの部分を取り入れること

私は見ての通り昔から真面目な人間だったのだが、真面目さのあまり自分のことを追い詰めがちなところがある。

もともと、そんなに頭が早く回らない上に、人に比べて体力がないので、自分が決めた規律に神経が悲鳴を上げてしまうのだ。

それでも前へ、前へ、とむりやり動かすことが美徳だと思っているので、どんどん歩むスピードが遅くなり、一日に進む距離も縮んで行く。そんな特徴があった。

 

最近は、真面目さだけでは生きていけないことを学びつつある。

私の「真面目さエンジン」は、瞬間的に爆発力を発揮する高性能の製品だ。私の融通の利かなさ、理想の高さ、昔から読んできた古典的な自己啓発本の思想を素材に構成され、自分より優れた人の姿や意識の高い言葉、最近の自己啓発本などをガソリンに動く。

 

「真面目さエンジン」の快感の源は、あらゆる外部環境を物ともせず自分の思い描いた道を突き進み、邪魔になった障害物を次々と蹴散らす無敵感である。そして、自らの信仰に対する確信が癒しとなる。 

 

ただ一つの欠点は、冷却しきれないほどの高温となり、しばしば車体を融かして再起不能になることだ。その最たるものは高校時代に病気になったことだ。

 

高校時代の反省を生かし、私はしばらく自分の「真面目さエンジン」を封印することにした(実際は、しばしば暴発することもあったが)。代わって大学時代に生きる術としたのは、成り行きに身を委ねて即興で返答する反射神経だった。

 

あらゆるものを拒まず、全てを受け止め、当意即妙に応える(もっとも、そんな器用な人間ではなかったが)ことが理想であり、流れに身を任せながらも流れの中で溺れずに、自らを活かすことを理想とした。

 

そこで快感であったのは、ある瞬間から次の瞬間へ移る時の場面転換の大きさである。「なぜ私はこんなところでこんなことをしているのだろうか」と感じることが、最大限の賛辞であった。

 

成り行きに身を任せる反射神経の欠点は、自分というものを持つことができないことにある。大学時代ならそれでもよかったが(期間が限定された平和の箱庭)、大学と違って悪影響をもたらすくだらない人間も大量に生息している実社会において、成り行きに身を任せること、自分を持たないことは、自分の価値を粗末に切り捨てていく危険性をはらんでいる。

 

私は働きだしてから、再び真面目さエンジンを頼りに生きていこうとしてきたが、それがもともと持っている欠点のために、いままた体調にひずみをもたらしている。私に足りないものは遊び心や心の余裕、柔軟性だと思い、先日ロジェ・カイヨワの『遊びと人間』を購入した。

 

カイヨワは遊びの分類としてアゴン(競争)、アレア(運)、ミミクリ(模擬)、イリンクス(眩暈)の4類型を提示する。

 

ここまで書いてみて、私の真面目さエンジンは、アゴンとミミクリに属し、私の成り行き任せの反射神経は、アレアとイリンクス(加えてミミクリも?)に属しているように思われる。(真面目さエンジンは遊びではないから違うだろうか・・・?)

 

いまの自分にわかっていることは、私の生きる方向性自体は間違っていないということ、だが真面目さ一辺倒では関係も滞るし身体や精神にも負担が大きすぎるということである。

 

今夜は思い切って、真面目であることをやめた。怠けている。

 

いまの自分にわかっていないことは、生活に適応した(理想的な)精神のメカニズムである。真面目さエンジンが行き詰まりつつある時に(それは同時に、自律神経の乱れも生じさせる)、いかなる比喩的な精神の動きによって再噴射、軌道修正、再度軌道に乗せればいいのだろうか。

 

いつか気付きが降ってくるだろうけど、いまはまだわからない。きっとそれは私に教養が足りないからだと思うのだ。

2/12 150%の力で取り組むことと完璧を目指さないこと

久しぶりの投稿。

普段は会社から帰って晩ご飯を食べて21時過ぎには眠り、朝は6時頃に起きて会社に行く生活をしているため、なかなか文章を書くことができていない。

とはいえ文章を書く訓練と日々の足跡を残すため、時間と気力がある時は少しでも書き留めたい。

 

先週、私が尊敬している会社の先輩に言われたことは、「150%の力で仕事をすること」と、それでありながら「完璧を目指さない」、ということだった。

150%の力で取り組むというのは、何も永遠に残業するのということではなく、一つの仕事をこなす時に、最低限の力で乗り越えようとせずに、その仕事に関わるなにもかもを吞み込もうとする姿勢のことである。

 

先輩が例として言っていたのは、たとえばExcelのデータ管理を任されたなら(これ自体はたいしたことない仕事だが)、Excelの関数を全部覚えてしまおうと思って取り組む、ということだった。

必要以上の気合と労力で、仕事に関連するなにもかもを呑み込んでやろうという気概。そのような気概を持っている奴は周りに推薦されて、本社部門であったり上に行く、とのことだった。

 

おそらくこの言い方に違和感を持つ人もいるだろうなと思う。それは、「人生における仕事をどう捉えるか」についての前提を異にする場合である。これ自体、一つの大きな論点だと思う。ここでは簡単に、私の今の意見を述べておく。

仕事は人生の唯一の目的ではないが、かといって「パンのために働く」ような、生存のために不可避の苦痛、というだけでもない。それは個人と社会とをつなぐ経路の一つであり、自らの目的を達成するための有効な手段の一つであり、人生に多くの可能性や機会をもたらす営みの一つである。

 

さて、先輩が付け加えて言ったことは、150%の力を注ぎながら、だが決して完璧を目指さないことである。完璧という理想に耐えうる体力がないのであれば、どんなに頭が良くても完璧を目指すうちに潰れてしまう、ということだった。

 

確かに、人生は長い長いマラソンだ。短期的にすごい速度で進んでもそのあと息切れするのであれば、一定のペースで走り続ける人に抜かれてしまう。

しかも人生はきっと、目指す方向がみんなバラバラのマラソンである。さらに、通常のマラソンコースと違ってアップダウンに富み、舗装されていない道もあり、自分の落ち度がないことで邪魔が入ることもある、不公平さと不確実性に満ちたマラソンである。

 

それでも生き続けることができるのは、遠くにある自分の理想に向かって、毎日一歩一歩進んでいるという実感が楽しいからに違いない。毎日何が起こるかわからないし、思うままにならないことも多いが、だからこそ生きてるという実感を得ることができる。なにもかも思い通りの人生なら、勝ちが確定したゲームを続けるのと同じくらいつまらないだろう。

 

自分の時間やお金の使い方、日々の行動や働く場所など、思いのほか自由にできることも多い。その取捨選択や投資配分を工夫しながら、今日もまた挑戦してみる。人生はもっともっと楽しむことができる。そう思っている。

2/5 グリットと社会科学再訪

最近本屋で平積みになっている『グリット やり抜く力』という本を読み終えた。自分なりに内容をまとめると、

 

・成功者は「やり抜く力」が強い。

・「やり抜く力」は3要素に分けることができる。

(※邦訳では2要素だが、自分の理解では3要素)

・「自覚」、「情熱」、「粘り強さ」の3つである。

 

自覚とは、自分が求めているものを明確にわかっていることである。

情熱とは、求めているものに対して尽きない興味関心を持っていることである。

粘り強さとは、調子がいい時もわるい時も、何度失敗したとしても、求めているものに対して諦めずに挑戦し続けることである。

 

話は変わるが、私は昨年修士課程3年目をやっていて、今年度も提出することができなかった。社会人1年目と新婚生活1年目と修士課程を同時にやることは大変だった。

(そんなことはない、お前の意思が弱いだけだ、と思う方は実際に自分で挑戦してみよう!)

 

そして『グリット』を読んで、確信を持ってもう一年やると決めることができた。

私を遮るものは何もない。ノイズが生じうるとすれば、自分自身の人生の中で挑戦していないために他人の人生の批評に忙しい者からの様々な注文や指図だろうが、幸い私は自分の正しさに確信を持っている。なぜなら自分の人生の行き先を決めるのは自分だからだ。

 

その後、メドウズの『世界はシステムで動く』の冒頭を読んで、私がしたかったことはこれだ、と安堵を得ることができた。私がこれまで、感覚として持ちながらも言葉にすることができなかった世界観を、彼女は明確な言葉と多くの実績をもって表現していた。

 

『グリット』の内容に戻り、人生の指針をいくつかの究極的な目標とその下にぶら下がった中位目標、さらにその下にある下位目標として理解するとしよう。私にとって高校時代からずっと持ち続けてきた、人生の知的な側面における究極的な目標は、世の中を見通す力を持ちたい、というものだった。

 

この究極的な目標の下にぶら下がる中位目標を、いま初めて整合的な形で描くことができる。

次の修論における(そして、これまでの修論にも連続的に通底していた)大きなテーマは、経済、人口、社会の関連についての興味である。そこに対する新たなアプローチとして、まーちゃん(妻)から、「地元の現在とフミコの現在とのつながりを見出してみたら?」とヒントを与えられた。

 

確かに、私の大学進学においても、就職活動においても、原動力になったのは、地元が将来廃墟になるのではないかというイメージだった。そこから、これまでがどうで、これからがどうなるのか知りたい、という漠然とした思いを得たのだ。

この意味で、私の原動力に真正面から向き合うこのアプローチの仕方は適切に思える。

 

そこで、いま読んでいる本に即して、「地元の都道府県をシステムとして捉える」ことを最初の一歩にしたいと思う。

これが私の中位目標の1つである。

 

大事なのはここからで、私の業務についても、「企業活動や特定の業界をシステムとして捉える」ことを別の中位目標にすることができる。

企業はゴーイングコンサーンである、このことは、システムはシステム自体の存続を目指す、ことと一致する。これにより、私は最近課されたDCF法をExcelにベタ打ちして理解する課外学習を自分の究極的な目標に整合させることができる。

 

たとえうまくいかなくても、何度挫けても、また立ち直って究極的な目標に向かい続けよう。そうでなければ、人生は味気なく、退屈になってしまうだろうから。

1/28 誕生日に購入した書籍の紹介/この1年、どんなことを大事にして生きたいか

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今週末は、私の誕生日デートをまーちゃん(妻)が企画してくれた。

小さな賞与袋の中に入っていたのはこのバースデイプランと、好きな本を1万円まで買っていいという手作りの引換券だった(ただし、仕事に関係のない本であること)。

 

ワクワクしながら、まーちゃん(妻)と本屋に向かった。買ったのは以下の本たち。

 

・遊びと人間 (講談社学術文庫) 

最近めっきり学術的な思考をしなくなった自分に。職場が男性的な価値基準で成立しているので、彼らのコミュニケーションとうまく距離を取りながら職場になじみたいと思い、選んだ。

 

・親業トレーニング(駿河台出版社)

もうまーちゃん(妻)と付き合って3年ほどになり、そろそろ夫婦の免許更新の時期にあたる。まーちゃん(妻)との共通言語を構築しようと思い選んだ。さっそく4分の3くらい読んだが、日常生活での人間関係にも役立ちそうな内容。

 

・世界はシステムで動く(英治出版

世界がもし100人の村だったら、の著者による本。少し前に流行していた。ずっと気になっていて読みたかった。世の中を見通したいという欲求を満たしてくれるだろうか、思考の軸になってくれるだろうか。楽しみ。

 

・ラルース 地図で見る国際関係(原書房

最近地政学が流行っているが、数年前から興味があった。しかし、最近の人が書いたチャラい内容のものは偏っていそうで敬遠していた。ラルース社は、確かフランスの伝統的な地政学関連書籍を出版しているところ(アトラス地図帳?)なので、これなら、と思い選んだ。山川の詳説世界史風の見た目で、読み物として楽しめそう。

 

そして、次の本はまーちゃん(妻)からのプレゼント。

 

・しごとのきほん くらしのきほん100(マガジンハウス)

シンプルな箴言集。現代的な菜根譚。まーちゃん(妻)いわく、「くらしを大切にしてほしい、けどしごとを頑張る君も認めている、そんなメッセージ」とのこと。自分の判断の軸にしたい。

 

本を購入したあと、ディズニーシーへ。二人で思いっきりアトラクションを楽しんだ。15周年記念の花火もバッチリ見て、いまは近隣のホテルに宿泊している。素敵なデートを企画してくれてありがとう、まーちゃん(妻)。

 

さて、この1年、どんなことをだいじにしていきていきたいか考えた。

 

1、人間として

・信念

私の信念はずっと変わらず、常により良い人間になることを目指し続けることだ(=Humanbeing)。このことは死ぬまで変わらないだろう。この信念と私の実情に乖離を感じる者は、私のことを知らないだけか、あるいは下記の価値基準や対人関係について私と意見を異にしているにすぎない。

 

なぜ常により良い人間になることを目指し続けるのか?その理由は、そうでない人生が退屈だからだ。自分の人生の意味を問う者は、人生に自らの意味を問われているということを知らない。神を試す者は、自らが神に試されているということを知らないのと同様である。

 

・価値基準

20代後半にもなれば、価値判断の基準を決めなくてはならないだろう。私の価値判断の基準は時間にある。以前のブログで述べたように、時間でお金を買うのではなく、お金で時間を買うこと。なぜならば、お金の価値はたいして変わらないが時間の価値や質は大きく変わるものだからだ(命に限りのある人間にとって、お金よりも時間の方が重要であることは疑問の余地がない)。質の高い時間を維持し続けることが判断基準である。昨日は、自分の労働時間の価値を円換算で測る方法を考えていた(機会があれば紹介する)。

本筋とはややずれるが、本も価格相当のお金以上の価値を持つと考えている。なぜならば、お金は働けば手に入れられるが、本は絶版になれば二度と手に入れられないからだ。そうでなくとも、一度手に入れた本がどこにあるのか探すことになれば、その探す時間が失われることになる。このことから、本は価格相当以上の財産であり、易々と人に貸すものではないなと思った。お金を人に貸す時は金利が付く。お金以上の価値がある本を貸すとしたら、どうして金利以上の対価が得られないはずがあろうか。

 

・対人関係

私は人間関係上、自分を押し殺すことが多かった。これからは自分の気持ちを大事にしようと思う。それと同時に、相手の気持ちも聞いてお互いの落としどころを探れるような人間になりたいと思う。自分を押し殺すのも、関係を切り捨てるのも、コミュニケーションの失敗という意味では同じだ。

 

2、暮らしについて

食事を大切にしたい。最近は忙しくてスープを作ることができていない。部屋をあたためて、体をあたためて、健康を保つこと。金の卵を産む鶏を殺さないように生きよ。

自分の家は、ある程度清潔で、暖かくて、風通しのよい場所にしたい。自分にとって居心地がよく、(自分が不快にならない程度に)愛する人々の憩いの場にしたい。

 

3、キャリアについて

仕事は生活や人生を豊かにするための手段である。料理をする時にジャガイモの皮をピーラーで剥き続けることがあるが、全ての仕事はそれと大差ない。仕事をする上で、稀に芸術作品を作ったり、人間と心の通った豊かな交流をしたりするような経験はあるかもしれないが、それらの瞬間以外は皮剥きと同じである。だから私は皮剥きと同じようにひたむきに、無心に、丁寧に仕事をしたい。限りなく無駄な時間を使わずに。私は職場のデスクに、「仕事の質はスピードである」という標語を貼っている。

キャリアは当面、自分の労働時間価値を高め続けると同時に、自分の労働市場における客観的な価値を測る機会を設けることを心がけたい。

 

30歳まであと数年。

20代の時間を有意義に使いたい。

1/25 今日の予定と2ヶ月後の予定

水曜ともなると疲労が溜まるな・・

土日休めなかったからだろうか。

 

今日は部署の先輩の仕事を急遽手伝った(結婚式を開いた人とは別)。

その先輩は投資銀行系の部署にいて、M&A案件に数多く携わっていた人だ。

 

その人から「お前この部署にいてただ言われた仕事だけやってたら伸びないぞ」と言われた。ジュニアなら20代のうちにデータベースに習熟すること(SPEEDAや日経NEEDS等)、法人客への個別提案書(私はまだ作ったことない)にDCF法による企業価値の試算を載せてみること、統計分析をやること等勧められた。

 

嬉しい一方で、できるかな、自分・・・と思い悩んで、まーちゃん(妻)に相談してみた。

まーちゃん(妻)は、「今日と2ヶ月後の予定を考える経営者の話」を教えてくれた。

ある経営者は、朝起きたらまず今日1日の予定を考えるらしい。起きて、何時にどこで何をして、云々。

次に、2ヶ月後の自分を想像する。その経営者いわく、1ヶ月では何もできないが、3ヶ月かけるのは遅い。2ヶ月間あれば何かを達成することができる、と考えているらしい。だから、2ヶ月後にはこれができるようになってるぞ!と考えて行動を決める。この、今日の予定と2ヶ月後の予定の両方を考えるのがポイントなのだとのこと。

 

まーちゃん(妻)からのアドバイスは、2ヶ月後ごとにどこまでできるようになっていたいかを区切って、半年スパンくらいで目標達成を目指すべきだということだ。

また、私だったら1日やってみたらできるようになるよ、とも言われた。

 

そうか、これは昨日の細切れ時間とまとまった時間の話で言えば、どこか土日にまとまった時間を確保して、1日取り組んでみればいいのか。

今日明日の短期間に、細切れ時間でなんとかしようとするのではなく、中期的な視野でまとまった時間をいくつか確保して進んでいけばいい。こう考えたらなんだかできそうな気がしてきたのだった。

 

私はつい「すぐにできるようにならなきゃオワリだ」なんて、思い詰めてしまうところがあったのだが、考えを変えることができた。確かに、中期的にはできなきゃいけないことではあるが、今日は今日でしっかり鼻注の準備をして、睡眠時間を確保して、体を温めなければいけないのだ。それも仕事のうち。

 

先輩から受けた助言はそれとして保留しておいて、休日に時間をとって、自分の中期的な勉強計画のなかに組み入れることにしよう。今日はもうこれで悩むのはおしまい。

 

あと2日、寒さに負けず乗り切るぞ!

1/24 細切れ時間/まとまった時間にそれぞれできることから生活を再設計する

①最近、退社時間を一定にしている。たとえ仕事が終わってなくても、次の日の朝早く来てやろう!と思い、早く帰ることを心掛けている。

②今日は2つの仕事の優先順位を考えた。1つは原稿を作成するもので、ネタをネットから探してくるところから始める必要がある。第一〆切(ネタ候補リストアップ)は1週間後。もう1つは普段やっている業務のフローをマニュアル化するもので、〆切は1ヶ月後。

私はこのうち後者に手を付けた。理由は、後者を早く終わらせてしまえば、他に何も考えることなく前者に没頭できるが、先に前者をやることにすると、後ろにやるべきことがある状態でプレッシャーを感じながら考える作業をしなければならなくなるからだ。

 

①、②から、自分の生活のあり方を見直すべきだと気付いた。

 

仕事や勉強は、日常のちょっとした細切れ時間に少しずつでも進めることができる。本を読むとしたら、とにかく早く全体像に目を通し、その後で何をすべきか考えればいい。

 

他のことに煩わされず遊ぶことに没頭するためには、まとまった時間が必要である。後ろに控えているものを思い出すと、その場を楽しむ気持ちが消え失せてしまうから。

 

だから、細切れ時間でできることは全て細切れ時間同士集めてしまえばいい。そして、それらを集めたことで生まれたまとまった時間に遊びの予定を入れればいい。遊びの時間中は一切効率性重視の物事は考えないことにする。そうすると、逆に細切れ時間の集まりはそれらのことに集中できる。

 

このメリハリを効かせた考え方に、これまで気付くことはできなかった。常に〆切ぎりぎりに(あるいは遅れて)、何かに追われて生きてきたからだろうか。

 

「細切れ時間とまとまった時間」、「効率性重視の時間と創造性重視の時間」、このような軸を持つことができれば、以下の分け方も間違いだと気付く。

 

・家↔︎会社という二項対立

→平日に帰宅しても残っている時間は短い。だから細切れ・効率性重視でやるべきこと(家事、勉強、簡単な運動、徒然な文章を書くこと)をすべきだ。

 

・勉強↔︎遊びという二項対立

→勉強には細切れでできるもの(毎日の積み重ねが重要なこと、たとえば少しずつ資格勉強を進めることや業界誌を読むこと)もあるし、まとまった時間が必要なもの(難しい理論を理解したり、試行錯誤すること)もある。

遊びにも細切れでできるもの(ショッピングや映画鑑賞)もあるし、まとまった時間が必要なもの(創作活動、厚い小説の読破、1日かけた旅行)もある。

だから勉強の日と遊びの日、と分けるのではなく、細切れでできるものを集めた日とまとまった時間が必要な日で分けるべきだ。

 

・・・こんなことを考えた。

昨年は、家庭や生活の大事さを知った一年だった。

今年は、要領のいい生き方を実践できるようになる一年にしたい。