東北生まれの冷え性金融マン・フミコの日常

クローン病をもつ新社会人のブログです。健康のこと、仕事のこと、家庭のこと、キャリアのこと、なんでも思ったことを書いてます。

10/28 休職日記②また、前向きに

最近は、週一回心療内科に通いながら、転職活動をしたり、Rを独学で勉強したりしている。休職によって、妻と一緒にいる時間が増えたことは望ましいことだ。その一方で、僕の転職活動の難しさも感じながら、一進一退している。

 

ある転職支援エージェント会社は障害者採用を専門にしており、そこの中途採用担当と会って話す機会があった。僕がつらつらと転職理由を話し、後日エージェントが会社に伝える転職理由を僕に確認のため送ってきた。そこには、まるで僕が生来の鬱病患者で、社会的弱者だから誰かの庇護がなければ生きていけないのでどうか雇ってくださいと言わんばかりの内容が書いてあった。僕はそれを読んで、怒りとともにその人間と付き合いを断つことを決めた。彼女は、きっと社会的弱者然とした障がい者に慣れすぎているのだろう。

 

先日の失敗をふまえて、今日会ってきた一般採用の転職支援エージェントには、意図的に前向きな理由を強調して述べた。結果として、良い印象を与えることができ、良好な関係を結ぶことができた。(およそ人事やマネジメントに携わる者で、ピグマリオン効果を念頭に置かない者は愚かだ・・・)僕がしたかったのは、単なる印象操作ではなく、自分の中の前向きな判断や思考を強く掴み、それに共鳴する仲間を作り、その仲間に助けてもらう行為だ。

 

今日のエージェントには、今の会社・部署にいても任される仕事が小さいだけでなく無意味かつ気まぐれに発生しているため、ここにいるくらいなら退職してプログラミングでも学んだ方が20代後半の過ごし方として有意義と判断し、年内には次の転職先が決まっても決まっていなくても辞めるつもりである、ということを伝えた。産業医の配慮により期間が先に延びたものの、最初からそのつもりで辞めることを決意していたので、決意と覚悟を持ってそう述べることができる。

 

それでは、10月末ではなく12月末まで延びたことは、単なる時間稼ぎとしての意味しか持っていなかったのか?僕は、そうは思わない。生まれて初めて心療内科に通い、軽度の精神安定剤を処方してもらったことで、10月頭に勢い退職しようとしていた自分が、心身ともに消耗しきっていたことに気付かされた。まず、精神安定剤によって、不眠症から抜け出すことができた。さらに、起きている間中感じていた恨みと悲しみの感情を持たずに過ごすことができるようになった。これまでの僕は、そのせいで思っていた以上に常に疲弊していたのだった。

 

読者は、心療内科と精神科の違いや、適応障害神経症鬱病の違いについて、明確に述べることができるだろうか?

 

僕はできる。この経験を経て、できるようになった。正しく知ることは、正しく人に接することにつながる。僕は、これからこれらの違いについて決して偏見を持たずに済むことができるようになった。身をもって経験し、そのうえで強く生きたいと願ったからだ。

 

今後の転職活動のスケジュールは、11月中旬頃から書類選考の結果が出始めて、面接で忙しくなるのは11月下旬からだろう。年内に決まれば御の字だが、決まらなくてもいい。決まらなかったら、修論の続きをやるなり、もっとRやPythonに詳しくなるなり、しばらく好きな勉強をして過ごすつもりだ。そのように過ごすほうが、不毛な職場で永遠にエクセルのフォーマットをいじり続けていたり、部長の気まぐれな暴言に心を委縮させているよりも、有意義な20代の過ごし方だと確信をもっているからだ。

 

今日は素敵な出会いの連続だった。

まず、僕の弱さではなく強さを理解してくれるエージェントに出会ったこと。その後、愛する妻とともに、二子玉川に夜を楽しみにいってきた。100本のスプーンという名のファミリーレストランで、誕生日みたいに美味しくて遊び心のあるディナーをおなかいっぱい食べてきた。その次に、僕の冬服がないというので、H&Mにコートと何点かの服を買いに行ってきた。そして、プライベートでまともな鞄を持っていなかったので、何店か回った結果、マザーハウスが生産した、こだわりに満ちた鞄を購入した。この鞄は僕のお気に入りだ。

 

妻は、「新しい自分を作る時期だから、新しいファッションを用意してあげたかった」と言った。今日から装い新たに、もっと素敵な自分になれるような気がする。

 

二子玉川の蔦屋書店、ここもお気に入りの場所なんだけど、良い本にも出会った。知っている人がいるかもしれないが、著者は高校時代をアメリカで過ごし、ひたすら筋トレを極めたツイッタラー。ずっと僕に必要だったエッセンスの一部を簡潔にまとめた一冊だ。妻は、マザーハウス創業者の自伝を読んで、波乱万丈な人生に驚き続けていた。

休職期間中に読んだ本については、またどこかの機会に紹介したい。

 

会社に入ってからずっと、正しい方向が見えずに苦しい時期が続いていた。いや、会社に入る前、大学院にいる時からかもしれないし、あるいは大学時代もずっとだったかもしれない。僕の精神は、高校時代や浪人時代に乗り越えられなかった壁の前で、ずっとずっと、足踏みし続けてきた。

今やっと、その地点を乗り越えられる道標が見えた。大学に入って以来、いまだかつてないほど、心が前向きなエネルギーに満ちている。幾多の苦悩や試行錯誤の末に、「適切なマインドセット(の組み合わせ)」を掴みつつある。

現実的な制約や不運、不調はもちろんあるだろう。

それでもなお「人生うまくいくだろう、きっと」という確固とした自信を今の僕は持っている。

この日この契機、この試練に感謝したい。

10/21 休職日記①疲れながら働いていた時に、読んでいた一節

疲弊しながら働いていた時期、よく読んでいたのはビクトール・フランクルの著書の下記の文章だった。

 

三 労働の意味

既述の如く、生命の意味は単に問われるべきものではなくて、われわれが生命に責任をもって答えるという意味で、答えられるべきものである。そしてこの答えは常に言葉ではなく行為によって与えられるべきであるのはいうまでもない。更にそれは状況と個人の具体性に応じたものであり、いわばこの具体性を自らの中に取り入れていなければならない。したがって真の答えは行動的な答えであり、日常の具体性における答えであり、人間の責任性の具体的な空間からの答えなのである。

(略)

創造価値ないしその実現が生活の使命の全面に出ている限り、その具体的な充足の領域は通常は職業的な活動と一致しているのである。

(略) 

可能な創造的価値実現の領域としての職業労働に対する人間の自然的な関係は、現下の支配的な労働事情の下においてはしばしば歪曲を蒙るのである。特に一日に八時間ないしそれ以上の時間を企業家とその利益のために働き、たとえばいつも計算ばかりしなければならなかったり、廻ってくるベルトに同じ作業をしなければならなかったり、あるいは一つの機械で同じ動作をせねばならないことを訴える人々がいる。仕事は非人格的になり、規格化されればされる程それだけ一層好まれず望ましくないものになるのである。かかる状態においては、労働はもとより賃金や必要物資の獲得の目的のための単なる手段とみなされうるのである。この場合においては本来の生活は自由な時間においてはじめて始まるのであり、その意味はその自由な個人的形成のうちに存するのである。しかしわれわれは、その労働にあまりにも疲れて、それが終った後に、何かよいことを始めることもなく、死んだようにベッドにくず折れざるを得ない人々がいることを忘れてはならない。彼らはその自由な時間をただ休息の時間にせざるをえないのであり、寝るより以外の他のことはできないのである。

                V.E.フランクル『死と愛』より、抜粋

 

この本は全部読み通した訳ではなく、また、前提となる知識が私の持っているものを超えているため完全に理解していない。そのうえで、私は上の文章を、以下のように解釈した。

 

前提として、フランクルは、「人生の意味は何か」という問いかけを、「ほかならぬこの私は、人生を通じてどんな意味を実現できるかどうかということを、人生の側から問われている」と捉える。

 

上記文章に戻って、自分が実現しなければならない人生の意味とは、抽象的な言葉ではなく、具体的な行動によって示されたものである。それは一瞬一瞬の行動でもあるし、様々な自己の選択により生み出した状況や環境でもある。

 

その人生の意味は、理想的には、自分自身の職業と結びついているものである。

 

もし職業と人生の意味がずれているのなら、日常生活において人生の意味を実現できる時間は、働いていない時間ということになる。だが、労働に疲れ果ててしまい、帰宅後や土日に人生の意味の実現に時間を使うことができないのなら、・・・なんのための人生だろうか。

 

*1

*1:ここで私が述べている「人生の意味」は、創造的価値、体験価値、そして態度価値を含む

7/2 2017年上半期所感

2017年の上半期が終わったので、所感を書いてみたい。

この6か月間は、「人に気を遣わないこと」、「強い自分自身を取り戻すこと」を常に念頭に置いて過ごしてきた。様々な試みのなかで、うまくいったこともあればうまくいかなかったこともあった。

 

うまくいったことは、以前よりも自分自身の感情を素直に表出し、自分の感じるままに生きることができるようになったことだ。自分の気持ちを押し殺して他人に合わせることが少なくなった。その一つの成果として、多少間隔に開きはあるにしろ、このブログを続けられたことがある。

 

うまくいかなかったことは、自分自身の身体的な土台作りだ。ヨガやスパ、ウォーキングや8時間睡眠などの体のケアは、やってみたけど続かないことが多かった。仕事で他人に振り回されて、体のケアに使う気力や体力が削られてしまったことが気に食わない原因として心に浮かんでくる。

 

まーちゃん(妻)を大事にすることは、ある程度できていた。具体的には、仕事に時間を使うか、まーちゃん(妻)との約束や、まーちゃんが喜ぶこと、まーちゃんがしたいことに時間を使うか、の二択を迫られた際に、後者を選択することが多かったように思う。自分にとっての精神的な土台であり、生活を一緒に作り上げるパートナーでもある。それに、この選択によって自分自身が幸せだと感じられる時間を創ることができていたので、きっと正しい選択だったのだと思う。

 

いま気がかりなのは、自分を振り返る時間を十分に持てていないことだ。人間の活動は、脳がフルに働いて情報を処理している時間と、脳が自動操縦状態で情報を処理している時間との2種類に分けられるだろう。ここ2週間ほどは、脳はストレス感情の解消に追われており、日々の生活は自動操縦でなんとか乗り切っているような感じがする。土日や一日の朝に立てた予定や計画に則って過ごすことができず、さらに、予定や計画を把握しながら過ごすこともできていない、いっぱいいっぱいの状態が続いている。

 

「働きだしたらいつのまにか数年経っていた」というのはおそらく、脳を自動操縦状態のまま放置していたことを意味しているのだろう。脳の自動操縦機能は人間に備わった有効なものではあるが、それは片側の車輪だけで進もうとするのに等しい。もう片側の車輪は、向かう先はどこなのか、その場所へどのようにして向かうのかを定める青写真を描くことである。目的地が明確なら、脳は必ずその場所まで辿り着く経路を算出できる。これが脳のナビゲーション機能である。ナビゲーション機能を使わずに自動操縦機能だけを働かせ続けることは、古い道路地図と、古い交通ルールをインプットしてカーナビを使い続けることに等しい。最近の自分はそんな状態が続いているような感じがするので、どうも気持ち悪い。

 

20代も残り少ない。次の下半期は意識的にナビゲーション機能を用いることを目標にしよう。そして、それを可能とするために、気力と体力を万全にすることをあらためて心がけよう。

7/1 秋田県の地域区分②金太郎飴はどこを切っても金太郎飴

(※今日はオチがないよ)

 

今日は昨日の続きで、地域振興局の区分に基づいた地域ごとに、人口がどうなるのかを整理してみた。

fumiacrohn.hatenablog.com

 

国立社会保障・人口問題研究所が2013年3月に、日本の各市町村ごとの人口推計を公表している。今日はこれを使ってグラフを作ってみた。

日本の地域別将来推計人口(平成25(2013)年3月推計)|国立社会保障・人口問題研究所

(リンク先の「3.男女・年齢(5歳)階級別の推計結果」を参照)

各市町村ごとに、5歳刻みの推計人口の数値が載っているので、これらを下記の4年齢区分に分けた。ⅰ)0~19歳、ⅱ)20~59歳、ⅲ)60~74歳、ⅳ)75歳~の4つである。それぞれ、ⅰ)子ども年代、ⅱ)子育て年代、ⅲ)いきいきシルバー年代、ⅳ)健康寿命以上年代、と想定している。

 

まず秋田地域。

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残りの6地域はこちら。

 

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 秋田地域だけ人口が40万人くらいいるので別にしてある。これら6地域は縦軸の上限を同じにしている。傾向に違いはなさそう。

 

次は、各年代の割合でグラフを作ってみた。

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うーん、これも僕には違いがわからん。

 

金太郎飴はどこを切っても金太郎飴ということだろうかと思い、最後に秋田県全体の増減と割合のグラフを作ってみた。

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うーーーん、今回は切り取る単位が悪かったようだ。

まーちゃん(妻)に「ケーキに頭突っ込んでどこ食べてもケーキしか食べれない」とたとえたら「そのたとえはいまの気分に合わない」と返された。

 

どんな切り口なら面白いかな?と考えて、僕はこの推計と実際の人口の動き(とくに個別の要因)とを比較することを考えた。まーちゃん(妻)は他市町村と比較してみれば?あと、そもそもどんな推計してるかによらない?とのことだった。

 

次回に続く(ほんとか)

6/28 秋田県の地域区分①

仕事で秋田県の地域区分毎の人口推移をグラフ化することとなり、あらためて秋田県の地域区分ってどんなだっけ?と考える機会があった。

 

(※2017年6月28日現在の秋田県内の市町村は全部で25市町村である)

 

ネットで調べたところ、めぼしいものが2種類見つかった。

1つは、秋田県庁のホームページ「美の国あきたネット」より、秋田県庁地域振興局の担当地域ごとの区分であり、以下のようになる。

 

秋田県庁地域振興局の地域区分

鹿角地域(鹿角市小坂町
能代・山本地域(能代市藤里町三種町八峰町
由利地域(由利本荘市にかほ市
平鹿地域(横手市
北秋田地域(大館市北秋田市上小阿仁村
仙北地域(大仙市・仙北市・美郷町)
湯沢雄勝地域(湯沢市・羽後町・東成瀬村
秋田地域(秋田市五城目町八郎潟町大潟村男鹿市潟上市・井川町)

出典:秋田県

www.pref.akita.lg.jp

 

 

もう1つは、「秋田県 経済圏」で検索した時に見つけた、経済産業省による秋田県の経済圏分析の区分である。

 

経済産業省経済圏分析による区分

能代経済圏(能代市藤里町三種町八峰町
秋田経済圏(秋田市男鹿市潟上市五城目町八郎潟町、井川町)
由利本荘経済圏(由利本荘市にかほ市
大館経済圏(大館市
大仙経済圏(大仙市、仙北市、美郷町)
横手経済圏(横手市湯沢市、羽後町、東成瀬村

出典:経済産業省秋田県の地域経済分析」

http://www.meti.go.jp/policy/local_economy/bunnseki/47bunseki/05akita.pdf#search=%27%E7%A7%8B%E7%94%B0%E7%9C%8C+%E7%B5%8C%E6%B8%88%E5%9C%8F%27

 

これら2種類の地域区分の共通点・相違点を明確にするために表にしてみたのがこちら。

 

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Excelで作成した表を図として貼り付ける仕方がわからない・・・ぐぬぬ

 

これを見ると、①秋田県庁地域振興局区分における、「北秋田地域」「鹿角地域」に属する市町村が、経産省経済圏の区分では抜け落ちていること、②地域振興局区分における「湯沢雄勝地域」が経済圏区分の「横手経済圏」に含まれていることが特徴的である。

 

・なぜ北秋田地域・鹿角地域が抜け落ちてしまっているのか?(人口がいないからというだけの理由ではないことを祈る)

・行政区分と経済圏の違いは、秋田県を見る時にどんな発見をもたらしてくれるのか?

 

これらについて興味がわいたので、気力がある時に少しずつ調べ学習をしてみたい。

 

 

※ここにおける経済圏について、経済産業省は次のように説明している。

地域経済は、都道府県や市町村という行政単位にとらわれることなく、地域住民が通勤 ・買い物など生活を営む圏域、つまり、経済圏を形成し、経済活動を行っています。 

引用:経済産業省秋田県の地域経済分析」54頁

http://www.meti.go.jp/policy/local_economy/bunnseki/47bunseki/05akita.pdf#search=%27%E7%A7%8B%E7%94%B0%E7%9C%8C+%E7%B5%8C%E6%B8%88%E5%9C%8F%27

 

※全体についての説明はこち

地域経済分析(METI/経済産業省)

5/29 精神性の力

今日はまだ月曜だというのに、身体のあちこちがバキバキで、自宅に帰ってぬるま湯の風呂につかりながら、主に首や肩を中心にひたすらひねってみたりしていた。そのあいだ、お気に入りの音楽(Civilization4のサウンドトラック)をかけて、クラシック音楽の中に埋まり浸っていた。

 

風呂上りにお香を焚きながら、引き続きクラシックを流し、ゆったりと息をしながらストレッチをしていた。目を瞑るとまるで雄大な世界が広がっているかのように思えた。今聴いているこれらの音楽は、300年も400年も人間の文化と共にあった。これらの音楽を愛する人々の群れ、受け継がれる血でつながった人類にとっての港として、灯台として、変わらぬ世界の柱として存在してきたのだと思うと、僕の心の中には、なによりも高く人々の心の寄る辺となるmonumentとしてのこれらの音楽の姿が浮かび上がった。

きっとその姿はひとつの真実なのだと思う。

 

心の中に浮かび上がる広がりと、monumentとしてのこれらの音楽の姿にくらべると、いま僕が生きている日常は色褪せて見える。日々、なんてくだらない仕事が発生しているのだろうと思うし、あまりに物質的で、即物的で、定量的な世界がいたるところから、僕が死ぬ瞬間までずっと敷き詰められており、おぞましいとしか形容できない生が存在しているように思える。qualityという語の意味が失われてしまっている時代なのだろう。

 

心の中に風景を浮かび上がらせるといえば、昔の人は演説の内容を暗記するときに、心の中に建物を建てて、その建物の各部屋を演説の内容の各部分に割り当てることで、長い文章も覚えていたという話だ。だが、もしかするとこの方法は、副次的なテクニックでしかないのではないか。心の中に空間を創ることは本来、人間のもつ創造力を発揮するためにある手段なのではないかと思った。最初は紙に書いてからでいいので、心の中に自分が選び取った美しい空間を次々に創っていく。この空間は何者にも脅かされない空間だ。なによりも、物質主義的で心が壊されそうになるのを防ぐために有効な手段ではないか。この発想は愚かだろうか?きっと、働きだしてから日常の無機質さに直面したことがなく、感情が死にそうになったり虚しさに目の前が白くなったりしたことがない人にとっては意味のない空想に過ぎないのかもしれないが、僕のように日常の虚しさになんとか抗いながら希望と成長意欲の灯を絶やさないようにするのが精いっぱいの人には、日常に真正面からぶつかるより「まだまし」な方法に思える。

 

心の中に創り出した美しい空間になにを結びつけるかといえば、それは本来のqualityだ。僕が思うに、モノやサービスに用いるqualityは消費社会が生んだ語法であり、より伝統的なのは人格に関するものだ。現代社会の人々のように人間性をむやみに貶めるのではなく、未来を切り拓く可能性と希望を人間性に期待すること。その構成要素が人格に関するqualityであり、1950年前後を境に失われたような気がする思想である。

 

同様に、「精神」という言葉、mentalityもまた、分析的なものの見方の戯れの果てに表面的な意味に劣化してしまった。人間がもっていた精神の有機的な連関は、気分や、ストレスや、感情や、知識など、個々の部分にばらばらに散らばって認識されることによって、全体が一つとして働いた時に発揮される推進力を失ってしまったように思える。根拠は薄いが、これが今われわれが生きる時代を特徴づける、人間に対する知のありかた、あらゆる認識の基盤として存在しているように思える。

 

このような見方を現実的ではないと言うのはたやすいし、確かに現代的な感覚にそぐわないのは間違いないと思うのだが、かといって、現実的で現代的な感覚に沿って生きることが意味があるようにも思えない。現に、生きるのが苦しいし、なんだって苦しさに耐え忍んで、心の希望を押し殺してまで、現実の側に合わせてやらねばならないのか。

 

今日の時点で答えを出せるわけではないし、僕もうまく実践できているわけではないのだが、どうも、1950年代より前、あるいはもっと前の時代に書かれた人格や人間性に関する本の中に、今とは違う生き方や、日々使うことのない創造力の使い方に関する記述があるような気がする。それは、少なくともここ50年くらいの間によく浸透してしまった認識とは異なるかもしれないが、だからこそ、今僕が感じている日常の苦しみを抜け出すヒントになるような気がする。

5/27 自己啓発本の意訳①

未来を考えると気分が落ち込んでしまうので、今読んでる自己啓発本のまとめ部分の意訳でも載せよう。

 

1.Your built-in Success Mechanism must have a goal or "target". This goal, or target, must be conceived of as "already in existence-now" either in actual or potential form. It operates by either (1) steering you to a goal already in existence or (2) "discovering" something already in existence.

(Maxwell Maltz, 2015, 'Psyco-Cybernetics', Pengiuin Random House, New York, p31) 

 

意訳

1、人間に埋め込まれている成功のメカニズムはゴールや「標的」がなければ機能しない。このゴールなり標的なりは、現実にあるものであれ潜在的な形態であれ、「すでに今存在するものとして」認識されなければならない。そのメカニズムは(1)すでに存在するゴールに導くか、または(2)すでに存在するなにかを「発見する」かによってはたらく。

 

注釈

すでに述べられたことを下敷きにして書かれているのでこの文章だけではわからない。この一節に関連することとして述べられていたのは、

①Success MechanismとNegative Mechanismの対比

著者が人間の無意識下にあると考えているもの。著者によれば、人間がもつ力は「頭に思い描いたことを現実のものにする力」である。成功すると強く信じてやれば成功するし、失敗すると思ってやれば失敗する。ポジティブなものだろうとネガテイブなものだろうと、人間が頭に思い描いた青写真を、無意識は汲み取ることで実現する。

 

②Success Mechanismとservo-mechanismの対比

Servomechanism (サーボ機構)とは、簡単にいうと自動制御装置のことらしい。僕も詳しくは知らない。著者が文中でよく例に出していたのは誘導ミサイルで、誘導ミサイルは①まず進み、②センサーが現状を把握し、③方向がずれていたら軌道修正する、というプロセスを通じて標的をめざす。自動制御装置は操作者が標的を定め、そのあとは装置が自動的に標的に向かう。著者によると実はSuccess Mechanismも同様で、人間がゴールを定めさえすれば自動的にゴールに向かうものらしい。このように捉えることが、発想の転換だ。

 

③成功する方法を思いつく仕方と度忘れした名前を思い出す仕方の類似

著者によれば、人間の無意識が成功に至る方法を考え付くプロセスは、度忘れした名前を思い出すプロセスに似ているらしい。度忘れした名前を思い出すときは、名前自体が「ある」ことの確信をもつものである。その失われた名前に集中することで、人間は名前をもう一度「発見」することができる(思い出すことができた場合)。名前を思い出すときは、断片的な情報をパズルのように組み合わせながら、ピースをすべてはめることで名前を思い出すことができる(たとえば、「たしかナ行で始まって、3文字で、いかめしい感じの語感で…」のように)。

 

感想

Success Mechanismをどう訳すかと考えて、まずmechanismは法則という言葉が思い浮かんだが、法則というのは公式に当てはめて考えるものであり、ここでのmechanismという言葉の意味は無意識についてのfunctionのprocessを言いたい言葉だろうと思いメカニズムのままにした。続いてSuccessという言葉だが、日本語で成功という言葉は強すぎるうえに胡散臭いので、困ったな、さらっと使いやがってと思ったのだが、この言語感覚はむしろ、日本社会において成功という事柄が常に妬みや疑義の対象として、人々に望まれていないことの現れなのではないかとも思った。

 

今日は眠いからここまでにしよう。。。

にしても、この訓詁学的なスタイルは、読む人にとっては内容がまとまっていなくてそんなに魅力的なコンテンツにはなりそうもないが、書く側の自己満足としてはなかなか楽しいので、これからも継続したい。アクセス数やふぁぼ数でお金を稼いでるわけでもないので。