東北生まれの冷え性金融マン・フミコの日常

クローン病をもつ新社会人のブログです。健康のこと、仕事のこと、家庭のこと、キャリアのこと、なんでも思ったことを書いてます。

7/2 2017年上半期所感

2017年の上半期が終わったので、所感を書いてみたい。

この6か月間は、「人に気を遣わないこと」、「強い自分自身を取り戻すこと」を常に念頭に置いて過ごしてきた。様々な試みのなかで、うまくいったこともあればうまくいかなかったこともあった。

 

うまくいったことは、以前よりも自分自身の感情を素直に表出し、自分の感じるままに生きることができるようになったことだ。自分の気持ちを押し殺して他人に合わせることが少なくなった。その一つの成果として、多少間隔に開きはあるにしろ、このブログを続けられたことがある。

 

うまくいかなかったことは、自分自身の身体的な土台作りだ。ヨガやスパ、ウォーキングや8時間睡眠などの体のケアは、やってみたけど続かないことが多かった。仕事で他人に振り回されて、体のケアに使う気力や体力が削られてしまったことが気に食わない原因として心に浮かんでくる。

 

まーちゃん(妻)を大事にすることは、ある程度できていた。具体的には、仕事に時間を使うか、まーちゃん(妻)との約束や、まーちゃんが喜ぶこと、まーちゃんがしたいことに時間を使うか、の二択を迫られた際に、後者を選択することが多かったように思う。自分にとっての精神的な土台であり、生活を一緒に作り上げるパートナーでもある。それに、この選択によって自分自身が幸せだと感じられる時間を創ることができていたので、きっと正しい選択だったのだと思う。

 

いま気がかりなのは、自分を振り返る時間を十分に持てていないことだ。人間の活動は、脳がフルに働いて情報を処理している時間と、脳が自動操縦状態で情報を処理している時間との2種類に分けられるだろう。ここ2週間ほどは、脳はストレス感情の解消に追われており、日々の生活は自動操縦でなんとか乗り切っているような感じがする。土日や一日の朝に立てた予定や計画に則って過ごすことができず、さらに、予定や計画を把握しながら過ごすこともできていない、いっぱいいっぱいの状態が続いている。

 

「働きだしたらいつのまにか数年経っていた」というのはおそらく、脳を自動操縦状態のまま放置していたことを意味しているのだろう。脳の自動操縦機能は人間に備わった有効なものではあるが、それは片側の車輪だけで進もうとするのに等しい。もう片側の車輪は、向かう先はどこなのか、その場所へどのようにして向かうのかを定める青写真を描くことである。目的地が明確なら、脳は必ずその場所まで辿り着く経路を算出できる。これが脳のナビゲーション機能である。ナビゲーション機能を使わずに自動操縦機能だけを働かせ続けることは、古い道路地図と、古い交通ルールをインプットしてカーナビを使い続けることに等しい。最近の自分はそんな状態が続いているような感じがするので、どうも気持ち悪い。

 

20代も残り少ない。次の下半期は意識的にナビゲーション機能を用いることを目標にしよう。そして、それを可能とするために、気力と体力を万全にすることをあらためて心がけよう。

7/1 秋田県の地域区分②金太郎飴はどこを切っても金太郎飴

(※今日はオチがないよ)

 

今日は昨日の続きで、地域振興局の区分に基づいた地域ごとに、人口がどうなるのかを整理してみた。

fumiacrohn.hatenablog.com

 

国立社会保障・人口問題研究所が2013年3月に、日本の各市町村ごとの人口推計を公表している。今日はこれを使ってグラフを作ってみた。

日本の地域別将来推計人口(平成25(2013)年3月推計)|国立社会保障・人口問題研究所

(リンク先の「3.男女・年齢(5歳)階級別の推計結果」を参照)

各市町村ごとに、5歳刻みの推計人口の数値が載っているので、これらを下記の4年齢区分に分けた。ⅰ)0~19歳、ⅱ)20~59歳、ⅲ)60~74歳、ⅳ)75歳~の4つである。それぞれ、ⅰ)子ども年代、ⅱ)子育て年代、ⅲ)いきいきシルバー年代、ⅳ)健康寿命以上年代、と想定している。

 

まず秋田地域。

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残りの6地域はこちら。

 

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 秋田地域だけ人口が40万人くらいいるので別にしてある。これら6地域は縦軸の上限を同じにしている。傾向に違いはなさそう。

 

次は、各年代の割合でグラフを作ってみた。

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うーん、これも僕には違いがわからん。

 

金太郎飴はどこを切っても金太郎飴ということだろうかと思い、最後に秋田県全体の増減と割合のグラフを作ってみた。

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うーーーん、今回は切り取る単位が悪かったようだ。

まーちゃん(妻)に「ケーキに頭突っ込んでどこ食べてもケーキしか食べれない」とたとえたら「そのたとえはいまの気分に合わない」と返された。

 

どんな切り口なら面白いかな?と考えて、僕はこの推計と実際の人口の動き(とくに個別の要因)とを比較することを考えた。まーちゃん(妻)は他市町村と比較してみれば?あと、そもそもどんな推計してるかによらない?とのことだった。

 

次回に続く(ほんとか)

6/28 秋田県の地域区分①

仕事で秋田県の地域区分毎の人口推移をグラフ化することとなり、あらためて秋田県の地域区分ってどんなだっけ?と考える機会があった。

 

(※2017年6月28日現在の秋田県内の市町村は全部で25市町村である)

 

ネットで調べたところ、めぼしいものが2種類見つかった。

1つは、秋田県庁のホームページ「美の国あきたネット」より、秋田県庁地域振興局の担当地域ごとの区分であり、以下のようになる。

 

秋田県庁地域振興局の地域区分

鹿角地域(鹿角市小坂町
能代・山本地域(能代市藤里町三種町八峰町
由利地域(由利本荘市にかほ市
平鹿地域(横手市
北秋田地域(大館市北秋田市上小阿仁村
仙北地域(大仙市・仙北市・美郷町)
湯沢雄勝地域(湯沢市・羽後町・東成瀬村
秋田地域(秋田市五城目町八郎潟町大潟村男鹿市潟上市・井川町)

出典:秋田県

www.pref.akita.lg.jp

 

 

もう1つは、「秋田県 経済圏」で検索した時に見つけた、経済産業省による秋田県の経済圏分析の区分である。

 

経済産業省経済圏分析による区分

能代経済圏(能代市藤里町三種町八峰町
秋田経済圏(秋田市男鹿市潟上市五城目町八郎潟町、井川町)
由利本荘経済圏(由利本荘市にかほ市
大館経済圏(大館市
大仙経済圏(大仙市、仙北市、美郷町)
横手経済圏(横手市湯沢市、羽後町、東成瀬村

出典:経済産業省秋田県の地域経済分析」

http://www.meti.go.jp/policy/local_economy/bunnseki/47bunseki/05akita.pdf#search=%27%E7%A7%8B%E7%94%B0%E7%9C%8C+%E7%B5%8C%E6%B8%88%E5%9C%8F%27

 

これら2種類の地域区分の共通点・相違点を明確にするために表にしてみたのがこちら。

 

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Excelで作成した表を図として貼り付ける仕方がわからない・・・ぐぬぬ

 

これを見ると、①秋田県庁地域振興局区分における、「北秋田地域」「鹿角地域」に属する市町村が、経産省経済圏の区分では抜け落ちていること、②地域振興局区分における「湯沢雄勝地域」が経済圏区分の「横手経済圏」に含まれていることが特徴的である。

 

・なぜ北秋田地域・鹿角地域が抜け落ちてしまっているのか?(人口がいないからというだけの理由ではないことを祈る)

・行政区分と経済圏の違いは、秋田県を見る時にどんな発見をもたらしてくれるのか?

 

これらについて興味がわいたので、気力がある時に少しずつ調べ学習をしてみたい。

 

 

※ここにおける経済圏について、経済産業省は次のように説明している。

地域経済は、都道府県や市町村という行政単位にとらわれることなく、地域住民が通勤 ・買い物など生活を営む圏域、つまり、経済圏を形成し、経済活動を行っています。 

引用:経済産業省秋田県の地域経済分析」54頁

http://www.meti.go.jp/policy/local_economy/bunnseki/47bunseki/05akita.pdf#search=%27%E7%A7%8B%E7%94%B0%E7%9C%8C+%E7%B5%8C%E6%B8%88%E5%9C%8F%27

 

※全体についての説明はこち

地域経済分析(METI/経済産業省)

5/29 精神性の力

今日はまだ月曜だというのに、身体のあちこちがバキバキで、自宅に帰ってぬるま湯の風呂につかりながら、主に首や肩を中心にひたすらひねってみたりしていた。そのあいだ、お気に入りの音楽(Civilization4のサウンドトラック)をかけて、クラシック音楽の中に埋まり浸っていた。

 

風呂上りにお香を焚きながら、引き続きクラシックを流し、ゆったりと息をしながらストレッチをしていた。目を瞑るとまるで雄大な世界が広がっているかのように思えた。今聴いているこれらの音楽は、300年も400年も人間の文化と共にあった。これらの音楽を愛する人々の群れ、受け継がれる血でつながった人類にとっての港として、灯台として、変わらぬ世界の柱として存在してきたのだと思うと、僕の心の中には、なによりも高く人々の心の寄る辺となるmonumentとしてのこれらの音楽の姿が浮かび上がった。

きっとその姿はひとつの真実なのだと思う。

 

心の中に浮かび上がる広がりと、monumentとしてのこれらの音楽の姿にくらべると、いま僕が生きている日常は色褪せて見える。日々、なんてくだらない仕事が発生しているのだろうと思うし、あまりに物質的で、即物的で、定量的な世界がいたるところから、僕が死ぬ瞬間までずっと敷き詰められており、おぞましいとしか形容できない生が存在しているように思える。qualityという語の意味が失われてしまっている時代なのだろう。

 

心の中に風景を浮かび上がらせるといえば、昔の人は演説の内容を暗記するときに、心の中に建物を建てて、その建物の各部屋を演説の内容の各部分に割り当てることで、長い文章も覚えていたという話だ。だが、もしかするとこの方法は、副次的なテクニックでしかないのではないか。心の中に空間を創ることは本来、人間のもつ創造力を発揮するためにある手段なのではないかと思った。最初は紙に書いてからでいいので、心の中に自分が選び取った美しい空間を次々に創っていく。この空間は何者にも脅かされない空間だ。なによりも、物質主義的で心が壊されそうになるのを防ぐために有効な手段ではないか。この発想は愚かだろうか?きっと、働きだしてから日常の無機質さに直面したことがなく、感情が死にそうになったり虚しさに目の前が白くなったりしたことがない人にとっては意味のない空想に過ぎないのかもしれないが、僕のように日常の虚しさになんとか抗いながら希望と成長意欲の灯を絶やさないようにするのが精いっぱいの人には、日常に真正面からぶつかるより「まだまし」な方法に思える。

 

心の中に創り出した美しい空間になにを結びつけるかといえば、それは本来のqualityだ。僕が思うに、モノやサービスに用いるqualityは消費社会が生んだ語法であり、より伝統的なのは人格に関するものだ。現代社会の人々のように人間性をむやみに貶めるのではなく、未来を切り拓く可能性と希望を人間性に期待すること。その構成要素が人格に関するqualityであり、1950年前後を境に失われたような気がする思想である。

 

同様に、「精神」という言葉、mentalityもまた、分析的なものの見方の戯れの果てに表面的な意味に劣化してしまった。人間がもっていた精神の有機的な連関は、気分や、ストレスや、感情や、知識など、個々の部分にばらばらに散らばって認識されることによって、全体が一つとして働いた時に発揮される推進力を失ってしまったように思える。根拠は薄いが、これが今われわれが生きる時代を特徴づける、人間に対する知のありかた、あらゆる認識の基盤として存在しているように思える。

 

このような見方を現実的ではないと言うのはたやすいし、確かに現代的な感覚にそぐわないのは間違いないと思うのだが、かといって、現実的で現代的な感覚に沿って生きることが意味があるようにも思えない。現に、生きるのが苦しいし、なんだって苦しさに耐え忍んで、心の希望を押し殺してまで、現実の側に合わせてやらねばならないのか。

 

今日の時点で答えを出せるわけではないし、僕もうまく実践できているわけではないのだが、どうも、1950年代より前、あるいはもっと前の時代に書かれた人格や人間性に関する本の中に、今とは違う生き方や、日々使うことのない創造力の使い方に関する記述があるような気がする。それは、少なくともここ50年くらいの間によく浸透してしまった認識とは異なるかもしれないが、だからこそ、今僕が感じている日常の苦しみを抜け出すヒントになるような気がする。

5/27 自己啓発本の意訳①

未来を考えると気分が落ち込んでしまうので、今読んでる自己啓発本のまとめ部分の意訳でも載せよう。

 

1.Your built-in Success Mechanism must have a goal or "target". This goal, or target, must be conceived of as "already in existence-now" either in actual or potential form. It operates by either (1) steering you to a goal already in existence or (2) "discovering" something already in existence.

(Maxwell Maltz, 2015, 'Psyco-Cybernetics', Pengiuin Random House, New York, p31) 

 

意訳

1、人間に埋め込まれている成功のメカニズムはゴールや「標的」がなければ機能しない。このゴールなり標的なりは、現実にあるものであれ潜在的な形態であれ、「すでに今存在するものとして」認識されなければならない。そのメカニズムは(1)すでに存在するゴールに導くか、または(2)すでに存在するなにかを「発見する」かによってはたらく。

 

注釈

すでに述べられたことを下敷きにして書かれているのでこの文章だけではわからない。この一節に関連することとして述べられていたのは、

①Success MechanismとNegative Mechanismの対比

著者が人間の無意識下にあると考えているもの。著者によれば、人間がもつ力は「頭に思い描いたことを現実のものにする力」である。成功すると強く信じてやれば成功するし、失敗すると思ってやれば失敗する。ポジティブなものだろうとネガテイブなものだろうと、人間が頭に思い描いた青写真を、無意識は汲み取ることで実現する。

 

②Success Mechanismとservo-mechanismの対比

Servomechanism (サーボ機構)とは、簡単にいうと自動制御装置のことらしい。僕も詳しくは知らない。著者が文中でよく例に出していたのは誘導ミサイルで、誘導ミサイルは①まず進み、②センサーが現状を把握し、③方向がずれていたら軌道修正する、というプロセスを通じて標的をめざす。自動制御装置は操作者が標的を定め、そのあとは装置が自動的に標的に向かう。著者によると実はSuccess Mechanismも同様で、人間がゴールを定めさえすれば自動的にゴールに向かうものらしい。このように捉えることが、発想の転換だ。

 

③成功する方法を思いつく仕方と度忘れした名前を思い出す仕方の類似

著者によれば、人間の無意識が成功に至る方法を考え付くプロセスは、度忘れした名前を思い出すプロセスに似ているらしい。度忘れした名前を思い出すときは、名前自体が「ある」ことの確信をもつものである。その失われた名前に集中することで、人間は名前をもう一度「発見」することができる(思い出すことができた場合)。名前を思い出すときは、断片的な情報をパズルのように組み合わせながら、ピースをすべてはめることで名前を思い出すことができる(たとえば、「たしかナ行で始まって、3文字で、いかめしい感じの語感で…」のように)。

 

感想

Success Mechanismをどう訳すかと考えて、まずmechanismは法則という言葉が思い浮かんだが、法則というのは公式に当てはめて考えるものであり、ここでのmechanismという言葉の意味は無意識についてのfunctionのprocessを言いたい言葉だろうと思いメカニズムのままにした。続いてSuccessという言葉だが、日本語で成功という言葉は強すぎるうえに胡散臭いので、困ったな、さらっと使いやがってと思ったのだが、この言語感覚はむしろ、日本社会において成功という事柄が常に妬みや疑義の対象として、人々に望まれていないことの現れなのではないかとも思った。

 

今日は眠いからここまでにしよう。。。

にしても、この訓詁学的なスタイルは、読む人にとっては内容がまとまっていなくてそんなに魅力的なコンテンツにはなりそうもないが、書く側の自己満足としてはなかなか楽しいので、これからも継続したい。アクセス数やふぁぼ数でお金を稼いでるわけでもないので。

5/8 眠れないゴムボール

今日は帰宅してすぐ寝たのだが、そんな日に限って深夜に目が覚めてしまう。そして、それは物思いにふける絶好の機会になってしまうのだ。

 

ふと思った。今この瞬間は「生きたい」と「しにたい」がちょうど半々くらいで、いいバランスを保っているな、と。

 

「死にたい」ではなく「しにたい」、あるいは「しにたみ」とは、とめどない上方比較(自分より優れた人と自分とを比較することで自分の地位を測ること)にしろ、絶対的に思える世の中のさだめに対して絶望することにしろ、その瞬間瞬間で切り取られた範囲の「セカイ」を自分の喉元に突きつけることで生まれる感情なのだと思う。

 

ああ、でも、自分は生きていてもいいんだ。あなたも生きていていいのだ。

 

高い自尊心や自己肯定感を持ったまま、現在の自分の水準を否定して向上心を持つことはできるのだ。

 

志を持とうと思って、気持ちや考え方が硬直してしまうと、かえって脆くなってしまう。

人当たり良く、人に好かれるために生きようとすると、自分の感性を殺して、義理と人情に流されるままどこにたどり着くというのか。

夏目漱石の『草枕』の一節のようだ。

 

前者は高校時代までの私で、後者は大学時代の私だ。

どちらもうまくいかない。どうしたらいいのだろうと生き方を模索していた。

気付いた。ゴムボールになればいいのだ。

 

スーパーボールは弾力性があるので、位置エネルギーを飛び跳ねる力に変えることができる。高出力のエンジンとまではいかないが、その跳ね方は力強い。そして、柔軟性があるので、脆く壊れてしまうということがない。柔軟性があるといっても、加えられた力をただ受け続けるのではなく、その内部にある弾力性が働くことで、力を加えられた状況から抜け出すことも、打ち破ることもできる。

 

「しにたい」と「ああ、生きててもいんだ」が両立することは、ゴムボールのように生きることだ。「しにたい」と、心が土に打ち据えられる。ベッドにへばりつかざるをえない。ざらにあることだ。横になったらすぐに「ああ、でも、生きててもいいんだ」と考えられるようになる。そうしたら、また飛び跳ねることができる。起き上がれる。

 

その時々の自分のパフォーマンスで自分の価値を測ることもやめよう。ここで言うパフォーマンスとは、知識の有無であったり、精神的・身体的に完璧に取り組めることであったり、成果そのものであったりする。私のパフォーマンスはだいたい自分の理想よりも低いので、いつでも落ち込む。けど、パフォーマンスを判断の基準と感情の起点にするのはやめよう。むしろ、自分の弾力性を、価値を測る基準にしよう。

 

その瞬間瞬間のパフォーマンスはブレがありすぎて、いつだって気持ちが振り回されてしまう。でも、弾力性なら永続的に自信の源となる。ああ、そうか、向上心とは日々のパフォーマンス水準の継続性のことではなく、心の弾力性のことを言うのだ。

 

何度でも飛び跳ねる。楽しむ。ゴムボールのように生きる。

5/2 元気な時に種を蒔いておくこと

最近は調子が出てきた。体調もまずまずいい(昨日は午前中に腹痛を感じたけれど)し、意欲もないなりにある。わりと気持ちの余裕を持って会社にいることもできるようになってきた。逆に、油断してミスをしやすいとも言える。

 

いまはM&A前捌きをする部署にいる。その関係で、今日は部署の先輩二人の研修を受けてきた。二人とも投資銀行部門にいた人で、内容は基本的なものだったが、やはり人が口で話すのを聞いているのは楽しいし、意欲をかき立てるものだ。そのうちの一人の先輩とは、先日の席替えで向かいの席になった。今日の朝、私は気分があまり乗らない状態で会社に行った。向かいの席の先輩が話しかけてきて(といっても雑談なのだが)、「いやー時間がないな。読んでも読んでも論文が出てくる。」と英語で書かれた論文の束を見せてくれた。彼は会社員のかたわら大学院の博士課程に通っていて、経営学専攻なのだった。だが、なにぶん私は(なんでこんな日に会社に来なきゃいけないんだ・・・)と苛ついていたので、そっけない返事をしてしまった。その後、私の一個上の先輩が、向かいの先輩の席に行って雑談し、論文の内容を簡単に説明してもらっていた。それを向かいで聞きながら、私は(しまったな・・・)と思っていた。いまやっている仕事など他愛ないもので、それよりは向かいの先輩のアカデミックな話の方が長期的に見て価値があることは明白だ。せっかく向かいの先輩の近くで仕事ができるのに、そこから学ぶ機会を見出さないのはまったく愚かとしか言いようがない。私の気分の大部分は会社に来たくなかった不快さで占められていたが、いくつかの自己啓発本の言葉が結晶化して私の脳に残っていたもの、すなわち向上心のかけらが、なんとか靄がかかった私の脳内土壌から芽を出して、私の行動を促した。私は向かいの先輩にもう一度論文を見せてくれ、なぜなら読んだ方がいいと思うからだ、と伝えた。すると先輩は最近気に入っているらしい研究者の実証的な論文(数式が出てくる!ファック!)を教えてくれた。また、しばらく経ってから、アメリカのデラウェア州の裁判所の判例に基づくケーススタディを読めばバリュエーションの論点に精通できる上に英語も読めて一石二鳥だ、という有益な情報を教えてくれた。ファックファックファックと思いながら私は二つの論文を印刷した。そして、会社帰りに近くの書店に行き、M&Aについて書かれた一番易しそうな本3冊を購入して来た(そのうちの一冊のタイトルは「はじめての企業買収」というもので、冷静に考えたらシュールなタイトルだ)。そうしてワクワクしながらまーちゃん(妻)に「僕はこの部署でM&Aに詳しくなってしばらくしたら投資銀行に行って、しばらく働いたらどこか事業会社の経営企画部門に転職してやるんだ」と話した。するとまーちゃん(妻)は、「水を差すようだが、元気だからといってたった一つの道を目の前に置くのは愚かだよ。いま楽しいのはわかるが、普段から所属するコミュニティは2つ以上用意し、元気な時のうちに、元気じゃなくなった時の備えをしておくものだよ」と教えてくれた。確かに、私はいま戦力期に移行したため、なんだってやってやろう!という気概に満ちているが、この状態に依存すると後が辛くなるものだ。戦力期は、努力半分、備え半分くらいの配分がかえって好ましいようにも思える。まーちゃん(妻)のおかげで自分の状態を客観視することができたのだった。

 

明日明後日には自宅の机用の椅子が届く。そうすれば長時間勉強することが(身体的には)苦じゃなくなるだろう。退院後の二週間、よくぞ体調を崩し切ってしまわずに維持することができた。今日の道しるべや快適な勉強空間が提供されることは、きっとそのご褒美だろう。