クローン病持ちのデータ分析系サラリーマン・フミコの日常

クローン病をもつ社会人のブログです。健康のこと、仕事のこと、家庭のこと、キャリアのこと、なんでも思ったことを書いてます。

4/22 場所を奪う政策と場所を与える政策

社会復帰の暫定的定義

刑務所出所者の社会復帰を、入院患者の社会復帰や休職者の社会復帰と同様のものとして捉えていいだろうか?もし、同様のものであるとするなら、その場合の社会復帰とは、(承認され、想定されている)マジョリティの生活様式への同化、と考えることができる。

 

場所を奪う政策と場所を与える政策

罪を犯した者を刑務所に拘禁することを、自由を奪う刑としてではなく、場所を奪う刑として捉えてみよう。場所を奪う刑が懲罰としての効果を与えるのはどんな場合か。これを考えるためには、例えば個人の労働や住居というものが、どのような原理で個人によって獲得されるのか、あるいは社会によって割り与えられるのかを考えてみるとよい。その原理が、なんらかの資源を用いて市場交換を通じてなされるものであるとする。この場合の資源とは、単に資金というだけでなく、その個人が交換相手として信用に値するかどうかという資質を含めて考えることができるだろう。さて、その資質の源泉に、いまその人間が住んでいる住所や職場というものが含まれるだろうか?含まれているならば、場所を奪う刑は、罪を犯した者の出所後の社会復帰を難しくするだろう。それゆえに、再犯防止政策において、「居場所を与える」必要性が認識されたのだと思われる。

では、なぜ再犯防止政策において、高齢者や障がい者を対象に支援することが可能なのだろうか。それは、高齢者や障がい者を対象として場所を与える政策というものが、すでに整備されていたからではないだろうか。高齢出所者に限れば、かつて場所を奪う政策の対象になったことによって、社会復帰が長らく困難だった者が、加齢とともに場所を与える政策の対象に移行した。そのため、いまやっと社会復帰が徐々になされているのではないか。これが仮説である。

 

コメント

・しかし、更生保護施設という場所を与える政策は存在していたはずだ。

・この素人考えのアイディアを歴史に即して論証できるだろうか。

・場所にかかわる社会理論を探せ。

4/21 研究の2つの論点

思い出してきた。僕の研究は2つの異なる論点に関心があるものなのだった。1つめは、高齢出所者問題が、なぜ起きたのか?2つめは、高齢出所者の社会復帰とは、社会学的にいかなる状態か?書くにあたって、分けて考えなければ取り組むことができない。前者は統計データを用いてなんらかの示唆を析出したい。後者は僕の数少ない経験データを用いて、理論的に書き上げなければできない。3年前に出せなかった修論の大部分は、後者に関する取り組みの記録である。まずはこれを形にするべきだ。そして、時間が余れば、前者に取り組むことができる。最善の努力を尽くして必ずつかまえなければならない。残された時間は少ない。

4/15 状況的リーダーシップ理論/弟の結婚式と父母のありかた

現在28歳として過ごし、これから30歳を迎える立場として、僕は下記2点を課題としている。

 

1.自己規律の向上

『トリガー 自分を変えるコーチングの極意』のなかでマーシャル・ゴールドスミスは、「状況的リーダーシップ理論の自己管理への応用」という考え方を紹介している。同書によれば状況的リーダーシップ理論は、ポール・ハーシーとケン・ブランチャードという行動心理学者が提唱した。それによれば、リーダーは状況ごとに部下の成熟度を把握し、適切なリーダーシップのスタイルを調整することが必要となる。以下、引用部分である。

①教示型

課題を成し遂げるのに具体的な指導を多く必要とする社員に用いる。リーダーは「クリス、これを一つずつ、やってほしい。これはこのときまでにやっておくように」というように指示する。主に一方的な会話で、部下からのインプットはほとんどない。

②説得型(コーチング型)

課題達成に平均よりも指導を必要とし、双方向の会話を平均以上に必要とする。コーチングは、学びたいと思い、その必要のある人に対して用いられる。リーダーは「クリス、これをやってほしいんだが」と言い、それからインプットを用いる。「どう思う、クリス?」という言い方をする。

③参加型(サポーティング型)

課題を達成するスキルはあるが、一人でやる自信を持っていない人に対して用いる。このスタイルでは平均より少ない量の指示を出す。リーダーは「クリス、これが課題だ。どうすればいいと思う?ちょっと相談しよう。これをやるにあたり、何を手伝えばいいかな?」と言う。

④委任型(譲渡型)

モチベーション、能力、自信の高い部下に対して用いられる。彼らは何を、どのようにすればよいかわかっている。また一人でできる。リーダーは「クリス、これが課題だ。君は今までも素晴らしい実績をあげてきている。助けが必要だったら言ってくれ。そうでなかったら、一人で思うようにやってくれ」と言う。

(前掲書88pを引用)

著者ゴールドスミスはこれを自己管理に応用する。まず自分を指示を出すリーダー側とそれを実行する部下側の2側面から理解する。誰もが朝起きた時や計画を立てた時はリーダーであるが、仕事に疲れた夕方や計画立案後しばらく時間が経った時には部下になっている。この乖離をふまえて目標を達成するために、状況ごとに上記4つの方法から適切なものを選び具体的な手法に落とし込んで実行をめざす。僕はこれを読んだ感想として、いわゆるPDCAを、より理解可能な内面のプロセスとして記述していることに感銘を覚えた。くわえて、応用範囲が広いため見返りが大きい。かつてドラッカーの本を読んだ時に、リーダーシップについて「リーダーシップは管理職のためだけのものではない、だれしもが自分自身のリーダーである」という旨が書いてあった記憶があるのだが、その意味を今初めて理解できた。

 

2.他者との関わり方

この数年、僕はある理由があったために意識的に他者との付き合いを避けてきた。だが、これからは他者との関わりを増やす必要がある。ゴールドスミスの言葉を借りれば、環境を環境のまま受け入れることで敵とするのではなく、環境をある整序立ったフィードバック・ループとして利用するというのが1つの理由である。もう1つの理由は、弟の結婚式で受けた印象である。この週末に青森に赴き、末の弟の結婚式に出席した。弟はある女性と一緒になり、相手の実家の事業を継ぐことになった。先方の父親は個人事業主であると同時に商店街のまちづくり活動に尽力してきた方でもあったため、披露宴には商店街の仲間も参列しており、商店街活動の担い手としても弟に大きな期待が寄せられていることが見て取れた。僕はその期待の重さを想像するとともに、ユーモアがあってこと人間関係においてうまく立ち振る舞うことができる弟に頼もしさを感じた。それにくわえて、秋田から青森へ親族一同を引き連れていった父母の息つく暇ない働きをみて、あらためて尊敬の念を覚えてきた。翻って、今の僕自身には足りないものがあるとも感じたのだった。それは、ここ数年の目指すものからみてある意味仕方のないことであり、新しいなにかを得るために失わざるをえなかったと理解している。だが、思うのは、僕が今のまま生きることは容易いが、それでは「ただ生きたにすぎない」だろうということだ。「より良く生きている」とは言えない。そして、僕はより良く生きることができる可能性をもっている。手始めにできるところから、①今まで会ってこなかった人々に出会い、②できていなかった他者への貢献に手を付け始め、③関係の結びなおしをすることを始めよう。③は、世界を読者の立場から読むのではなく、共同執筆者の立場から書き直す行為であり、自己に変化をもたらす契機となるだろう。

 

少し不明確な部分はあるが、今日はここまでにしておこう。

 

4/10 ゼミの感想

今日は2年ぶりに院ゼミに出席してきた。出席者はM1含めて20人弱ほどで、講義棟のゼミ室がいっぱいになるほどだった。春の陽気のなかで、久しぶりのゼミの空気を味わった。今日は初回なので、前期のスケジュールの説明と、毎年恒例の指導教員による研究の心得に関するプリントの読み合わせをした。そのプリントを読むのは僕にとって3回目であった。もう何度も目を通したが、それを実践できるようになっているとは言い難い。心得の文章の内容が、今年度はあらためて身に染みて感じられた。今年どうしても卒業したいからだ。そして、2年ほど離れてからまた訪れて感じたことだが、いまいるゼミはどうも、人文科学的な色彩が強い。ここで人文科学的と言っているのは、狭義の社会科学と対比している。僕の感覚では、狭義の社会科学では実験計画を決めて、定型化された統計的手法を用いて分析をするものであり、日常生活を送るうえで暗黙の前提となっている様々な合意事項を疑わない。それに対して人文科学では、合意事項自体を議論の俎上に置いて、それぞれ個別的な手法を取捨選択して「書き上げる」、こうしてみると、僕が書けなかったのも当然だと思った。現時点の僕は人文科学的な仕事が苦手だ。だから、僕は僕に合ったやり方を用いて(言い換えると、その範囲内で自制して)書かなくてはいけないと思った。このように、自分の性質を考慮してやり方を選ぶということを、昔の僕はできなかった。今の僕なら考えられる。ただ、すべて社会科学的にやろうとしてもたいしたものにはならなそうなので、ベースを社会科学的な形式で、人文科学的な視野の広がりをもって、というバランスが望ましい。加えて、もっと本を読む必要を感じた。指導教員が心得の中で、書くために読むことを薦めたからだ。それも、論文だけでなく小説やエッセイを含めた文章をだ。僕は、もともと本を読むほうではないのだが、最近は意識的に小説のようなフィクションを読まないようにしていた。それは、働くうえでフィクションよりも実用的な文章を優先することを自分に課していたからだ。だが、以下2つの理由から、これからもっと文章を読む必要がある。第一に、この修論を書くため。第二には、データサイエンティストの格言のうちの1つである、「理系のように考えて、文系のように表現する」ことができるようになるためだ。この道の先にのみ、僕の望む未来、僕の望む自分がある。それがどんな姿かはまだわからないが。気づけばずっと、苦手な人文科学のゼミにいた。いま、社会科学の方法を実践の中で体得して、仕事として人文科学の要請にも応えることができれば、確実に一段上の構想力・分析力・叙述する力を獲得できる。所属がどこにあっても僕の本分はそこにあることを信じて祈っているので、今年はひとつ、心を決めて過ごしたい。

変わってしまったものを問うことは、変わらないものを知るためにする

家~渋谷図書館

今日は、3月の終わりだ。土曜日の朝、昼過ぎに起きて、本当なら国立に行くつもりだったのだが、どうしても、なにもやる気が起きなかった。それは、まーちゃんも同様だった。だから僕は、きっと今日は平日根詰めたぶん、気分転換が必要な日なのだなと思って、お散歩に行くことにした。まーちゃんの母校に近い広尾方面ならきっと気持ちよかろうと思い、携帯も持たず、ふらりと歩き出した。恵比寿から広尾のほうに向かうと、しばらくは大通りに面した道を歩くことになる。車の通りが煩わしく、静かなところへ行きたい。そう思いながら歩いた。すると、子供連れでにぎわっている長方形の公園にたどり着いた。長い方の辺が約30mほどはあろうか、奥に入ると車の音が遠ざかって聞こえる空間だ。桜の名所らしく、きれいなピンク色の桜の木がほうぼうにあり、花びらがそこら中に散っている。父母同士で花見をしているグループもいる。子供の年齢は3歳頃が中心で、たわいのない遊びをしている様子だ。まーちゃんと、コンビニで買った100円のコーヒー牛乳を分け合って飲みながら、のんびりとした休日の暖かさを感じるベンチに腰を下ろした。すぐそばに保育園があり、まーちゃんの将来の話もした(注:まーちゃんは指導教員から、保育士免許を取得し幼稚園教諭を育成する大学に就職することを勧められている)。それからまた歩き始めて、広尾の高級住宅街周辺を進んだ。広尾にある戸建て住宅は、国立以上に目を引くものが多い。上には上がある。それから、聖心女子大の脇を通って、まーちゃんの母校を眺めた。そのまま歩いて國學院氷川神社、公園を経由して渋谷区立渋谷図書館にたどり着いた。

 

渋谷図書館~自宅

渋谷図書館はレンガ造りの古びた建物で、薄暗い雰囲気だった。雑多な本に混じって、ギデンズ社会学やピケティの21世紀の資本、ロールズの正議論などがあり、読むものに事欠かないありがたい場所だった。僕が今日借りたのは、数学ガール1巻、理学研究者が書いたAmazonのランキングのロジックを説明した本、アリババの馬雲を紹介した本の3冊だ。もっとも、読み切れず終わってしまうかもしれないが、それにしても、自宅の近くに返却用ブックポストがあるらしいので、利便性が高い。まーちゃんは、たいてい借りる本に悩むたちなのだが、せっかくだからということでカフカ全集を借りたようだ。僕がなにより嬉しかったのは、山岡荘八徳川家康の本を見かけたことだった。なにも、歴史オタクでもないし、結局僕はその文庫を8巻目で挫折してしまったのだが、これは1つの思い出の本なのだ。大学時代にフラフラしていて、国立の市立図書館によく通っていたとき読んだ本だ。さらにうれしかったのは、数学入門書が少しあったことだった。高校時代は数学ⅡBまでしか履修しなかったし、大学受験は数学0完で入学したので、数学はまったく苦手な部類だ。ところが会社の先輩が数学の研究課題を投げかけてくるので、人並みに数学ができなければいけない。大学時代に読んだ畑村洋太郎の直感でわかる数学のような、数式の意味を日常言語で説明している本であったり、分厚い数学辞典が渋谷図書館にあったため、心強く感じた。気分よく図書館を出て、渋谷のスーパー・ライフに向かった。以前の消費習慣が抜けていないため、金欠が続いている。それをなんとかするために、まーちゃんとともに1週間ぶんの食材をまとめ買いしようと考えていたのだが、いかんせんまともな価格帯のスーパーが近くにない。今日見つけたライフは歩いて行ける距離のうち一番安く、品ぞろえも豊富だった。しかも、324円で購入した商品の送付まで手配してくれる。これまた心強い場所を見つけることができ、生活に希望が見えた。

 

自宅にて

家では、晩ご飯を食べて、2時間ほどハイキュー!のアニメを見た。ハイキュー!は週刊少年ジャンプの漫画が原作であり、漫画のほうは展開が遅く最近楽しめなくなっていたのだが、アニメで観ると、アニメーションの動きとセンスのある演出があいまって、とても心を動かされた。同じくジャンプの食戟のソーマの方は、漫画に声と色を付けただけのように感じるが、ハイキューはアニメにする意味がある作品と感じられる。そして、原作の持ち味である青臭い青春劇の良さはそのままなので、僕も高校時代の部活を思い出した。ハイキューほど目的意識をもってstep by stepに成長できなかった点が悔やまれるが、熱さや若さがあった。<僕はなにかを取り戻そうとして生きているのだろうか?、とこれを書きながら自問した>そして今、パソコンに向き合って、モーツァルトを聴いて、お香を焚きながら感性の針を一定の幅のうちにとどめようとしている。最近頭にあることは、数学であり、統計学であり、社会学であり、Rであり、プログラミングであり、人文学である。もうスーツは着ていないし、少なくともこの3ヶ月は典型的なオッサン管理職とストレスフルな接触をする機会を避け続けられている。自分の脳と心を守るためにだ。なるべく環境を、サラリーマン組織の類似ではなく研究室の類似であるかのようにとどめおこうとしている。僕は回帰してきた。大学時代と関心は変わっていない、と思う。ただ、前よりも少しだけ生きるのがうまくなった。そして、1人ではなく2人で人生を生きている。2人の理想は共通している。これだけが変化だ。強い意思に呼び戻され、ここまで回帰してきた。そしてそれは、高校時代に志望校を決めたときからずっと、漠然とした原点のようなものから一貫している。<僕はなにを確認したいのだろう?><迷いがあるのだろうか?><自分が正しいことを信じたいのだろうか?>わからない。わからないけど、この自分に対する問いかけは、大学時代の僕そのものでもある。いやそれ以前から、人と話すことが得意ではなくもっぱら内面の対話ばかりしていた僕、ずっと続けてきた自己の証明だ。だから、僕は今まさに僕なのだ。<この地点は思考が分岐する地点であり、様々な回答があるだろう。今回は、以下のように答えた>そして、わからない。だから、僕は今関心があるものに没頭するとともに、この種類この水準の悩みにうまく応答してくれるものを探そう。それは本かもしれないし、場所かもしれないし、会話かもしれないし、音楽かもしれない。あるいは、この状態は問題状態なのではなく、一つの健全な精神状態なのかもしれないし、一つの健全な酩酊状態なのかもしれない。<度が行き過ぎれば鬱になる>矛盾しているようだが、僕は今までになく調子が良く、自分の興味があることに没頭して学び続けたい。そして、僕は他人を必要としている。それは矛盾しているがゆえに、よく響く鈴がガラス瓶に落ちた時の音のように、自明の理であるように思われる。ここが、張り裂けどき。もう一枚、自分を切り開いて変わる。なぜなら、変わらなかったことがわかったのだから。

3/22 自分の遺骨を吐き捨てて

積み重なる記憶の地層が、下にある層の上に敷き詰められ、昔の匂いが埋もれていく。音楽もまた個人の発達に伴って、その時期の自分の一部として記憶され、そうしてはまた新たな記憶で塗り重ねられていく。もう消えてしまった残り香ほどに、とらえどころのないものになっていく。

 

ここ数日は、なぜかわからないけれど大学時代の自分の感覚が、ふとした瞬間に浮かんでくることが多かった。前の職場のことをなんとなく思い出すならわかる、だがなぜ今になって大学時代のことを?こんなことはこの数年なかったことだ。場所を対象とするならば郷愁といい、過去を対象とするならば追憶とよぶ。ひとつひらめいた理由は、このようなものだ。いま自分の中で一つの時代が終わり、新しい次が始まろうとしている。だから、終わりつつある「今」のひとつ前のことを懐かしがるのだと。なぜなら、もはや完全につながりが絶たれてしまうからだ。

 

常に、自分を中心として3つの時間区分があるとしよう。今と、次と、ひとつ前。tとt+1とt-1だ。今が次に移れば、つまりt+1がtになれば、t-1はt-2となる。2つ前の時間区分のできごととなる。大学時代で1つ、大学院~働き出して2年間までを1つとして、後者の時間区分に属して過ごしてきたが、いまそれが終わろうとしている。この数年の過ごし方を経て、大学時代の自分から決定的に変化してしまったことがいくつもある。そして、働く場所も住む場所も変わり、生存のための適応も進んだために、ここ数年の自分の人格からも異なる存在になりつつある。それを予兆するかのように、ひとつ前からふたつ前になっていく時間の残照がたゆとうているのにちがいない。それをどうすることもできないけれど、なにか大事なことのような気がするから、ただ感じたままに記録しようとしている。

 

たとえばシャボン玉だとするなら、いま淡く浮かんでパチンと弾けて消えようとしているのは、中央線沿線の空気、強いて思い出すなら大学がある街の(徹夜明けの)朝の陽射しであったり、人々が起きて歩き出す道路の臭いであったり、僕なりのちっぽけな青春のもろもろの断片であったりするだろう。

 

だが、そういったものはほとんど思い出さなくなっていた。生き抜くのに精一杯だったからだろうか。これからも生きるのに努力を要することは変わらないが、最近は安定軌道に乗りつつある。体調は悪化しているものの、精神的な盤石さは比類ない。それが単調さをはらんでいようとも、力強く前に進んでいくことができる。それゆえに、ほとんど失われた脆さを思い出したのかもしれない。今は、以前よりもふてぶてしい。自分の本心を第一にするようになった。だとすれば、別れてしかるべき脆さなのかもしれない。

 

それでも、かつての自分をきちんと弔いたい。ほとんど有益なものが見つかりそうにない、過去の自分の遺骨を口に含んで、淡白な追憶の味をかみしめたい。そうして、ああ、やはり無益であった、と確認して、道端に吐き捨てて顧みず立ち去りたい。

・・・そのあと、自分の瞳に何が見えるだろうか。

3/4 ふたりのこと

ツレがうつになりまして。」という映画を観た。そこで、僕と妻のことについていろいろ感じたことがあったので、書いてみたい。

 

映画の中で主人公の夫婦は売れない漫画家とさえないサラリーマンで、どちらも社会不適合者っぽいのだが、そんな二人が不器用なりになんとか支えあって生きていく。僕と妻も似たようなもので、僕のほうはもともとの病気に加えて、頑固だったり人付き合いが雑だったり、オンオフの切り替えが下手だったりで、まあまあ社会不適合だし、妻も少し変わったところがある。そんな僕ら二人はお互いを必要としていて、支え合いながらなんとか毎日を乗り越えていっているのだ。

 

二人でこういう種類の映画を観たのは、「リリーのすべて」ぶりだなと思った。この映画は完成度が高く、また解釈の仕方も様々あると思うのだが、僕と妻は「変わったところがある夫と、一緒にいる妻のパートナーとしてのありかた」という視点から映画を観た。これは、前述の映画とも共通しているのだが、「繊細で神経質なところがあり、ある部分でむきだしの弱さを持つ男(夫)」というキャラクターと、「その男に翻弄されながらも強く支えようとする女(妻)」というキャラクターの行動、会話、心理の描写が描かれることが特徴である。このように観てしまうのは、(最近はそうでもないにしろ)僕たち夫婦の自己認識に近いものを感じるからだ。

 

僕たち夫婦は大学院で出会ったが、その出会いや過ごし方は自立した二人の男女の関係というよりも、互いに不完全な部分をもつ男女が共に身を寄せ合う関係、と言うほうが近かった。どちらかが弱くなったときはもう一方が励ましたり助けたりして、一緒に小さな成長を共有しながら、一歩一歩なんとか生き延びた。このような日々の積み重ねだったと想起するので、たとえば前者の映画の中で、妻がよく夫のそばでごろ寝する姿を観て、ああ、自分たちにそっくりだな、と思うのだ。その姿は男女のロマンチックなふれあいというよりも、仲のいいきょうだいがじゃれあうふれあいに近く、不完全な二人が身を寄せ合う図としてリアリティがあるのである。

 

僕はとくに、仕事のことに夢中になるとそればっかり考えたくなってしまうし、普段お互いがなんとなく元気に過ごしているとついつい忘れてしまうのだが、そういうお互いのかけがえのなさ、弱さを補い合って生きていることを思い出すと、この人がいればそれだけでいいなあと思えたりもする。できれば、そんなときは日当たりのいい部屋で、相手の存在に感謝しながら、ただゆったりとした時間をかみしめていたい。