クローン病持ちのデータ分析系サラリーマン・フミコの日常

クローン病をもつ社会人のブログです。健康のこと、仕事のこと、家庭のこと、キャリアのこと、なんでも思ったことを書いてます。

5/17 チラシの裏―オーディエンスVSパーソナルについて

 まだまとまっていないが・・・

僕は世の中に、「オーディエンスマーケティング」と「パーソナルマーケティング」というものがあると思う。僕の理解では、オーディエンスマーケティングとは、ある特定の共通点を持つ層(たとえば性別、年齢、職業、興味関心など)をセグメントとして切って、そのセグメントに対するマーケティング施策を打つというものだ。それに対してパーソナルマーケティングは、さまざまな個人情報に基づいて、その個人にとって最適なモノやサービスをマーケティングしようとするものといえるだろう。こう考えると、オーディエンスマーケティングは生産者起点なのに対して、パーソナルマーケティングは消費者起点といえるのかもしれない。また、BtoCの立場にいて消費者の情報を多く保有するプラットフォーマーにとって、パーソナルマーケティングは他社よりも容易に実行可能であるように思える。機械学習の普及はこれを加速させる。この場合、個人を1レコードとする多数のデータを学習データとして、コンバージョンするかどうかを予測するモデルの精度を高めることにより、パーソナルマーケティングはより洗練されたものとなっていく。現在の動向をみると、機械学習が使いやすく、個人情報が集めやすくなる時代においてパーソナルマーケティングは主流になっていきそうな一方で、オーディエンスマーケティングは古臭い手法として葬り去られる可能性もあるようにみえる。たしかに、人間をある属性からのみ捉えてしまうような、画一的な人間理解に基づいているというのは、あまり魅力的ではない発想だと思う。ただ、僕はオーディエンスマーケティングそのもの、というよりもその前提となる思想については簡単に捨てるべきではないものを含んでいる予感がする。まず対比物であるパーソナルマーケティングの前提となる思想を突き詰めた世界はどのようなものかというと、すべての人がその人にとって最適で唯一のモノやサービスの提供を受ける世界なのではないだろうか。それは、すべての人が最適で唯一の人生を生きる世界でもあるだろう。いい世界に思えるが、心配性な僕は、人間の相互理解の欠如やコミュニケーションの分断を思い描いてしまう。翻って僕がオーディエンスマーケティングの前提にあると考えているのは同質性の仮定であり、オーディエンスマーケティングにしかできないことはムーブメントの創出であると思う。なぜなら、社会の中にひとつの流行や集団行動を巻き起こそうという企画は、孤立していない人々の間に共感とそれに基づく行動が生まれる未来を想像することだからだ。パーソナル、すなわち個人として人間を見ているうちは、人々の間に相互行為があるということを見落とすおそれがある。だから、オーディエンスマーケティングの積極的な意義として、ムーブメントの企画と期待を主張することができる。この場合のオーディエンスマーケティングにおいては機械学習は取り入れづらい。なぜなら、パーソナルマーケティングは個人を1レコードとすれば大量の学習データを手に入れることができるが、ムーブメント、すなわち集団行動を1単位のデータと考える場合、データ量とデータの範囲の2点に関して、とても扱いづらいデータになることが予想できるからだ(これは量的調査と質的調査の対比でもみられることである)。この理由から、パーソナルマーケティングよりもオーディエンスマーケティングのほうが、すこしだけAIにとってかわられるのが遅いのではないだろうか。・・・冒頭と後半とでオーディエンスマーケティングの定義が変わってしまったかもしれないし、文中で想像したような極端な世界に到達することはないだろうけども。

5/16 大事なもの

今日ブログを書いているのは書きたいことがあるからというよりも、書かなければ家でずっとだらだらして過ごしてしまうから、それを防ぐためにしている。昨日はまーちゃん(妻)に、今年1年が僕にとって勝負なのだから、受験生のような気持ちで過ごすように怒られた。ともすれば会社で働いている自分でばかり居続けてしまい、修論を書かなきゃいけない自分を忘れてしまう。ひとつ試しに、明日からは朝8時から9時半までオフィスビルのカフェスペースで研究をして、その後出勤するようにしよう。全然キーボードが進まないので気持ちは重いが、朝に無料のコーヒーを飲みながら、東京タワーが見える高層階の景色を眺める爽快感を餌にして、なんとか毎朝足を運ぶ習慣をつけてみよう。まーちゃんに言われたが、僕は修論をやる現在の自分と将来の自分との間に関連性を見出すことができていないんじゃないか?とのことだった。確かに、こんな限定的なものがどう役に立つのかわからない。でも、出せなきゃ出せないでもう自分に期待をしなくなってしまうだろうなあ。オフィスで隣に座っている先輩にも、前職の先輩にも、適当に書いて出してしまえばいいじゃないと言われたし、就職する文系修士の論文などほとんど意味がないことはその通りだ。とすれば、僕のこのこだわりはきっと、社会人になった誰しもが持っている、どうしようもない愚かさの一形態なのだと思う。それはどういうことかというと、たいていの人間は、仕事をする時に合理的な自分を演じて生きているはずなのだけれど、プライベートでは人に理解されない趣味や謎のこだわりを持っているものだと思うのだ。それが、僕の中ではきっと(結局ずっと身にならなかったし、これからもそうなるかはわからない)勉強に対する憧れというか、自分に対する高い期待値と混ざったものだろう。だとすれば、これを出せなかった未来の僕は、この自分の幼さや本質的なもののひとつを捨ててしまうのだろう。世の中に折り合いをつけすぎて、世間に合わせすぎてしまうのだと思う。これは、過去の自分であったり、夢や希望であったりするものと現実の自分とをつないでいる糸なのだ。それは、世の中を生きていておかしくなってしまわないための生命維持装置であると同時に、常に現実の自分を縛りつけて可動域を狭める制約でもあり、そしていま僕が生きる意味のひとつでもあるのだと思う。そうか。大事なものなのだ。だからうまくできなかったり、目を背けてしまいたくなったりするのだ。これに向き合っている時間、悩んでいる時間は僕にとってかけがえのないものなんだね。キーボードを打ちながらこの地点まで来ると、なんだか気持ちが少し楽になったようだ。

5/14 そろそろ、ひさしぶりにワーク・シフトの目次を読んだ

僕は自分のことをライフ・シフト信者だと思い込んでいたが、実際はそれほどちゃんと読んだわけじゃなくて、むしろ著者の本で先に読んだのはワーク・シフトの方だった。ライフ・シフトに比べてワーク・シフトの方がより切実な、切迫感をもったものとして読み取ることができるし、ライフ・シフトは大風呂敷を無難にまとめたものと言っても過言ではない。とくに第4部「働き方を<シフト>する」の第8章、「第一のシフト―ゼネラリストから『連続スペシャリスト』へ」はこの本の中でもっとも価値がある部分であり、ずっと忘れてしまっていたのは驚きだ。

前職の時、僕はこの本を読んで、4つの専門性を身に付けることをブログで書いた。そのうちの2つは、データサイエンスと都市社会学だ。偶然なのか制約ゆえの必然なのか、まだそれに触れ続けている。ワーク・シフトは僕の転職を理論的にサポートした本だった。意図的かどうかはわからないが、僕はこの人手不足の時代に給与を上げるための転職ではなく経験を得るための転職をしたようだ。結果として、いまはある程度の経験を得る機会と、さらに偶然だが労働時間の柔軟性を手に入れることができた。20代の金融資産は確かに魅力的だしいくらでも増やすことができそうに思える。だがそれ以上に、自由な時間や職場で能動的に動く(、さらに失敗すらできる)機会を得られていることが、僕の人生の大きな資源として目の前に広がっているように思われる。

最近は、企業に入社してやや環境に慣れてきたために、組織の中でどうやって生き残っていくかということを主眼に置きがちなところがあった。でも、それではもったいないし、むしろ危ういとなんとなく自覚している。さらに攻める。少なくとも、攻めの姿勢を根源に持っておくこと。傍目には、しばらく企業で安定して勤めているように見えるだろうし、僕もしばらく今の環境を捨てるつもりはない。生活の土台は引き続き安定させていくのだろう。だが、水面下でも地表下でもいいのだが、先々に備えて尖りきったなにかを磨き続けておかなければならない。

僕は、長時間労働できないし、仕事一筋の人々のように生きたいと思ってはいない。だからこそ、持続可能な範囲で、少しだけ違うことをし続けなければならない。真正面から戦えば勝てないと考えているから。少しずらして戦う。分散させて戦う。あるいは、戦わなくても済む地点に先んじてたどり着く。転職して5か月目になる。ここで思考停止に陥ってはいけない。無理せず、頑張らず、楽しいことだけ選んで、だけどいつも違うことを試し続ける。わずかでも新しいことに触れ続ける。ゴムボールのように、跳ね返り飛び上がる生を再起動する。何度でも。

5/1 理想と期待と現実

今日は5回目のゼミに参加してきた。ゼミ後に、マイノリティに属する研究対象へのインタビューを得意としているDの先輩に、データの扱いと修論の進め方についてアドバイスを頂いた。わかっていたことだが、まず書けということ。そして、まだ書き上げていないなりになんとなくの方向性は合っていそうだという感触を得てきた。文章を書いていると、理想と現実のギャップに打ちひしがれて筆が止まることがよくある。このブログについてはなにも期待していないので最低限の期待値でどんどん書き進めることができるが、修論は別だ。いいものを書きたいし、ここまできたからいいものを書かないと納得ができない。でも、それをそのままやろうとすれば2年前と同じ轍を踏むことになる。僕が1日でたどり着くものには限界がある。だから、1日の作業に大きすぎる期待をかけることはしてはならない。この1文に盛り込めることにも限界がある。完璧かつ壮大な理論を描けるようなものを僕は自分に期待しがちだ。だが、それではダメなんだ。理想は低めなくていい。理想こそが生きる原動力なのだから。だが、期待は身の丈に合わせたものでなくてはならない。期待が都度の作業や試行の達成水準を設定するからだ。大きすぎる期待は無理な達成水準を要求する。無理な達成水準は挑戦を成功ではなく失敗に導く。理想は高く、期待は正確に。正確な期待と行動を何度も繰り返すことを通じて、高い理想を目指す。おそらく、こういうふうに考えればよかったんだ。理想と期待と現実の行動。この3要素からなるフレームワークは、理想と現実の2要素からなるフレームよりも人間に合ったものであるはずだ。

4/29 GW1日目

前回の社会復帰率を比較する云々は定義とインターネットの海に溺れるだろうということでいったん保留に。今朝はまーちゃんと散歩しながら何から始めるかを考えた。結論として、最初に大学院で調査した結果の部分を書き上げて、そのあと(余力があれば)プラスαを追加する、ということになった。前者は、社会復帰とは何か?ということをオープンクエスチョン(まーちゃんの言葉)で調査したら、出所者が一人で社会に戻るというよりは、すでに地域社会に受け入れられている場に入って、そこでなんとか生きることで、全体像として社会に戻ることになるのだ、ということだ。二段階のプロセスを想定することができる。考えてみれば、僕も働いていたり信用のある組織に所属しているからクレジットカードを作れたり家を買えたりするのかもしれない。この話は「信用の担保」という話につながっていくのだろうか?それは置いておいて、ここまでをまず書く。そして、オープンクエスチョンから得た気づきを、①なんらかの理論につなげて考察を書くか、②気付きをもとに仮説を立てて統計かなにかで実証するか、③あるいは理論につなげたうえで仮説を立てて統計で実証するか、という方向が考えられる。だとすれば、まずは大学院の時のものを早く読める形にすることが必要だ。

 

しかしあれだな、どうも社会内処遇という言葉は気に食わないな。出所した先で自分が過去に刑務所にいたということを知っている人がいつまでもいるというのもやりづらくもあり、だからそのことを施設の職員に伝える・伝えないということをするのだろうな。

 

いろいろと悩ましい点はあるのだが、進めてみよう。

 

ピラミッド構造で考えるなら、「出所者の社会復帰とは(主部)2段階のプロセスである(述部)」。あるいは、言葉を付け加えるなら、「出所者の社会復帰とは、4つの問題を持つ2段階のプロセスである」。これはAはBである、と書ける。ここから生まれる疑問として、主部は何を指しているのかということ。もうひとつは述部の2つとは何と何かということ。これに対する答えとして、「出所者の”居場所”への参入と、”居場所”の社会内存続の2つである」。これはBはb1とb2である、と書ける。これに対する疑問として、b1とb2はそれぞれ何を指しているのか。これに対して、b1とは何々であり、b2とは何々である、というふうに続けていく。

4つの問題とは、まずアクセスの問題、次いで適応の問題(適応の問題は、同化の問題と受容の問題)、そして存立維持の問題を指す。

4/23 妻からの反論

先ほどの記事について、妻から手厳しい反論がいくつかあったので記載する。

まず、「刑務所出所者の社会復帰は、入院患者の社会復帰や休職者の社会復帰と同様のものである」について、この文章だとまだ社会復帰というプロセスを漠然としたものとして捉えてしまっている。僕の頭の中の前提として、高齢出所者を10回も20回も刑務所を出たり入ったりした累犯者として想定している。これと比較できる入院患者や休職者は、10回も20回も入退院や就職・休職を繰り返した人だろうから、それは普通の生活はできないだろうなと思った。

くわえて、たとえば日本企業に勤めている東京住みの夫婦がいて、夫が会社命令でグアテマラに滞在することになって妻が仕事を辞めてついていったとしよう。その後日本の大分支社に配属が決まり、戻ってきた妻が就職先を探そうとする時に、わざわざ好き好んでキャリアの断絶があるその女性を採用する企業がどのくらい現れるだろうか。この点で、日本社会(とくに、キャリアにおいては日本企業の人事)が「ふつう」と考える経緯をたどっていない人は社会復帰しにくいのではないか。

社会復帰というプロセスを、ある場所で生きていて、自由意志に反してある建物に閉じ込められた後に、外に出てふつうの生活をしようとする3か所の移動を要点とするならば、高齢出所者が刑務所という施設から高齢者向けの施設に移ることは、指定された建物の中で生き続ける点で何も変わっていないのではないか。

などなど。あらためて、難しいなあと思った。

4/23 1歩目の帰無仮説、2つの具体的な行動

今日は家で悩んでいた。前回の考えは話が大きすぎて論じるのが難しい。前々回は修論の論点が2つあるという話をして、後者の「高齢出所者の社会復帰とは、社会学的にいかなる状態か?」を考えるといった。しかし、この問いかけのままだととりとめがなさすぎて、考えの手がかりをつかむのが難しい(博識な理論家なら可能かもしれないが・・・)。この大きすぎる問いを、手頃な大きさの問いに置き換える必要がある。AであるかBであるか、明白な白黒のつく仮説を実証すること、そして実証結果の原因を考えることを通じて、社会復帰が何を意味するのかを知ることができるのではないか。

いま、ひとつ考えたものはこうだ。前回、「刑務所出所者の社会復帰を、入院患者の社会復帰や休職者の社会復帰と同様のものとして捉えていいだろうか?」と問うてみた。(僕個人の感覚では、違うもののような気がする。)思考の手がかりとして、「刑務所出所者の社会復帰は、入院患者の社会復帰や休職者の社会復帰と同様のものである」という命題を掲げてみる。いわば帰無仮説である。ここから2つの方向性が生まれる。

1つ目は、上記命題から導き出される観察可能な含意として、「刑務所出所者、入院患者、休職者の社会復帰率は同じ値である」ということを証明する。(まずは「社会復帰率」なるものを計算しなければならないが・・・)

2つ目は、刑務所出所者、入院患者、休職者の社会復帰に影響する要因のステマティックレビューを漁ることにより、いかなる要因があるのかを一覧にする。

これら2つの方針は迂遠で荒唐無稽なアプローチかもしれないが、1時間前の僕のように、不毛な苦しみのなかで瞼を閉じてしまうよりは生産的で、なにより精神的に健全だろう。精神が健全でなければ続けられないものだ。明日は、上記を具体的な行動に落とし込んでみることにする。

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観察可能な含意は、G.キング・R.O.コヘイン・S.ヴァーバによる『社会科学のリサーチデザイン』(勁草書房)の日本語訳者によれば、「その仮説が正しければ当然に生じるであろう事象」(同書11頁)とある。調査者は、「間違う可能性のある(反証可能な)理論を選択し、」それを確かめるために「できるだけ多くの観察可能な含意」を作って検証しなければならない(同書22頁)。

 

ステマティックレビューとは西内啓の『統計学が最強の学問である(ビジネス編)』(ダイヤモンド社)によれば、一定の条件で該当する論文全てを収集整理し、研究対象にかかわるどのような種類の要因が、どのような分析の結果、影響をもつとされたのかを一覧にしたような論文のことである(同書62~63頁)。